『市子』私たちは市子の過去を辿ってゆくにつれ、彼女を心から抱きしめてあげたい気持ちに駆られる
『市子』の冒頭シーンは、市子(杉咲 花)が恋人の長谷川義則(若葉竜也)からプロポーズを受けた翌日に、忽然と姿を消すところから始まる。より正確に言えば、姿を消したのは長谷川が婚姻届を市子に見せた翌日だ。
市子が姿を消す理由は、プロポーズではなく婚姻届にあったことが、過去に市子と関係があった人々の証言によって徐々に明らかになってくるという、ミステリー仕立ての構成で物語は展開する。
人が人を愛する時、その愛する人の社会的存在など深く考えないだろう。その姿、声、考え方、感じ方など共有できる部分があれば、違う部分もあるけれども、確かに現前に存在する、という事実だけで十分ではないかと思う。しかし映画は、市子本人が望まない、市子の社会的存在のマトリックスを紐解いていく。
その映画の構造について、東京国際映画祭 プログラミング・ディレクターの市山尚三はこうコメントしている。
「海外の映画祭関係者と話すと”日本映画は身の回りの話で完結しているものが多く、社会が見えない”という声をよく聞く。
『市子』はそうではない日本映画が確実に存在することを示している。杉咲花の抜群の演技は今年の様々な女優賞の最有力候補となることは間違いない」
一方、映画の構造ではなく、市子に魅入られた釜山国際映画祭 プログラム・ディレクターのナム・ドンチョルはこう語る。
「この映画は、まさに主人公の『市子』という存在そのものに関する映画だ。私たちは市子の過去を辿ってゆくにつれ、その境遇を理解するだけでなく、同時に、彼女を心から抱きしめてあげたい気持ちに駆られる」
映画館という安全地帯で映画を観ることができる観客は、市子を抱きしめたく思うだろう。同じく抱きしめたいと思うのは、市子の幼馴染を演じた大浦千佳。彼女はこうコメントを寄せる。
「市子が笑顔になるだけで泣けてくる。こんなに主人公を抱きしめたくなる映画は無いと思う」
映画を監督したのは、劇団チーズtheateを主宰する戸田彬弘。劇団の旗揚げ公演作品でもあり、サンモールスタジオ選定賞2015では最優秀脚本賞を受賞した「川辺市⼦のために」を映画化した。
市子を演じた杉咲花は、ノーメークで役に挑み、次のようなコメントを寄せている。
「この役を託してもらえたことに今も震える思いです。市子の、人生に関わった去年の夏。撮影を共にした皆さまと、精根尽き果てるまで心血を注いだことを忘れられません。その日々は猛烈な痛みを伴いながら、胸が燃えるほどあついあついものでした。
あなたやあなたのすぐ隣にいる人へこの映画が届いてほしい。彼女の息吹に手触りを感じられることを願っています」
戸田彬弘 監督インタビュー
――本作は、どのようにして着想を得て執筆されたのでしょうか?
舞台「川辺市子のために」の初演が2015 年で、当時、僕も30 歳になったぐらいだったんですが、周りに若くして亡くなる人がいて……しかも亡くなった後もFacebook などを通じて、誕生日のお知らせがくるんです。そのページを見てみると、亡くなったことを知らない人が「おめでとう!」とメッセージを残しているんですね。実際はもうこの世にはいないのに、まだいることにされていることに、ある種の違和感を抱いていたんです。そういったところから、逆転的ではあるんですけど、存在しているのに存在していないことにされている人の話が描けないだろうかと、考え始めて。そのテーマと向き合う中で、自分の少年期に市子のように途中で下の名前が変わった友達もいたという出来事を思い出したんです。
自分の責任ではなく、社会や制度、家庭環境などによって生き辛さを抱えていた人たちが居たことに遅まきながら気付いたんですよね。そういう人たちの気持ちを知りたいと強く感じるようになって──。気づいたら、自分の劇団チーズtheaterの旗揚げ公演に合わせてのオリジナルの戯曲を、このテーマを元に一本書いてみようと思い立って。それが、着想にいたる経緯です。
――市子の半生ですが、彼女の身に数年ごとに起こる出来事が細やかに描かれていて、実際にあった事件を基にしているのではないかと思うぐらいリアリティがありました。
市子の人生にいかにリアリティを持たせるかが演出テーマでもあったので、生年の1987 年から年表をつくっていきました。彼女の年齢と併記して、日本の社会情勢やどういった事件が起きて、どういったブームがあったかなど、時代背景と照らし合わせながら舞台用の戯曲を書き進めていったんです。結果的に「サンモールスタジオ選定賞2015 」で最優秀脚本賞をいただいたのですが、選定理由も「実在する人物の半生がモデルになっていると錯覚するほどリアルだった」と、評価していただいて。その年表も今回の映画化に際して、さらに細やかかつ視野を広げたものにしています。というのも市子の半生はすごく複雑なので、映画から関わるスタッフやキャストのみなさんが背景や物語の構造を理解しやすいように、脚本の上村(奈帆)さんと「このシークエンスは人生でも大事なところだと思うので、今一度書き起こしていきましょう」と相談をして、サブテキストとして撮影とは別で大量のシーンを書き、それを役作りのガイドとして役立ててもらおうと考えていました。
――舞台の初演から8年、映画化するにいたった経緯をお聞かせください。
実は以前にも「映像化できるかもしれないけど、興味はないですか?」とお話をいただいたことがあったんです。でも、僕が演劇の学校出身ということもあって、本作品(戯曲)は、戯曲の構造や演劇の特性を出そうと注力していたので、映像化を前提にはしていなかったんですね。なので、その時には難しいと判断してお断りしました。その後ずいぶん経ってから、プロデューサーの亀山(暢央)さんと「何か映画をつくりましょう」という話になりまして、亀山さんが「川辺市子のために」を初演から観てくださっていたこと、自分の中でも代表作という自覚もあったこと、その頃には、小説化するための構成アイディアも見つかっていて……各章ごとに主人公を変えて、その視点から市子を見つめていく構成にしようと考えていたんですが、それをベースに脚本を再構築していけば映画化できるかもしれないと、少し道が開けたんですね。黒澤明監督の『羅生門』(5 00)がまさに各登場人物の証言によって主人公の人物像が浮かび上がる構造になっていますが、その手法に倣えば映画になると具体的にイメージできたんです。それが2019 年ごろで、脚本のプロットづくりに着手した──という感じでした。その直後にコロナ禍になってしまったので、2021 年撮影予定だったのですが、時期を延ばさざるを得なかったんです。この作品の拘りの一つに、年表を書いた時と同じく自分達の世界線と結び付く必要性があったんですね。CG は使いたくないし、セットを建てたくない。大作なわけではないので、街ごとエキストラを揃えるのも難しく、撮影時の街の人々がマスクをしていると時代が損なわれてしまう。コロナの収束を待って撮影に臨もうとしたのですが、どうやらコロナは収束しそうにない…となり、結局プランを少し変えて、街のシーンを極端に減らして撮影することにしたんです。結果、2年近く掛けて台本を丁寧に練ることができたので、そこはプラスにとらえてもいいのかなと思っています。ちなみに、決定稿まで24 回改稿を重ねました。
――映画化に際して、『市子』とシンプルかつインパクトのあるタイトルになっています。
市子が主人公の話ですし、彼女が背負っている境遇によって自分の名前を偽って生きざるを得なかったという意味でも、市子という固有名詞を前面に出したいと考えたんです。それと「〜のために」と入れてしまうと、市子に肩入れして映画を見始めてしまう可能性が大きくなってしまうのではないか、と。もう少しフラットな視点で映画に入ってもらえたらという思いがあって、「〜のために」を外しました。原作を書いている時の心情と、完成後の自分の「市子」を巡る心情が変わったからだと思います。キャストの方々もこのタイトルを気に入っていらっしゃったので、妙案だったのではないかなと思っています。
――その市子に杉咲花さんをキャスティングした経緯もお聞かせください。
市子と彼女の母親のなつみは魔性のようでもありながら、どこか人を魅了してしまうところがある。言語化すると、女性の艶やかさや人間としての強さのようなものを醸し出している人物で、それを体現できる女優さんに演じてほしいというのが僕の希望でした。特に市子は原作でも多面的に描かれているので、陽=朗らかさと陰=底知れない怖さを表現できて、関西弁が話せる人はいないかと関西出身の方をピックアップしていたんですけど、ふと〝杉咲花さんは「おちょやん」で関西弁を話せるじゃないか!〟と気がついて。また、『楽園』(1199)などを観た時に印象深かった目の力強さ、言わずもがな『トイレのピエタ』(1515)や『湯を沸かすほどの熱い愛』(1166)で見せた芝居の幅広さもそうですが、語らずに目や佇まいで人の深みを体現できる女優さんでもある。年齢も高校生から失踪する20152015年の2828歳まで演じられると見込むと、すべての条件が合致しているんです。そこで、市子役を杉咲さんにお願いできないかと亀山さんに相談をして、直筆の手紙を杉咲さんの所属事務所宛てに送りました。まずマネージャーさんたちに企画主旨をお話して、二度目の打ち合わせで諸々の確認をして、3回目の打ち合わせで初めて本人と会ってお話ができました。杉咲さんが台本を読んで「市子を演じたい」という強い意向を持ってくださっていたとのことです。
――長谷川義則役の若葉竜也さんのキャスティングについてもお願いします。
若葉さんの出演している映画を何本も観ていて、芝居がすごく上手いのにあんまり飾らない素朴さがあって、それでいて包容力がある人だなという印象を抱いていたんです。市子と3年も一緒に過ごしながら、プライベートを聞かずにいた長谷川という人物の懐の深さと言いますか──市子が「この人となら安心して、そばにいられる」と思えるような雰囲気を出せる人にお願いしたいと考えて、『愛がなんだ』(1919)のイメージもあって若葉さんにお声がけし快諾していただきました。
――実際に撮影現場で杉咲花さんのお芝居をご覧になって、どう感じられたのでしょうか?
杉咲さんは一瞬一瞬を大事に演じられる方だな、という印象を受けました。僕自身も、ロケーションやその日の天候、俳優さんのお芝居における1テイク目とアングルを変えた2回目のテイクと……すべて同じものはないと映画を撮る上では考えており、そういった意味での価値観みたいなものが似ていたので、すごくやりやすかったですね。杉咲さん自身も話していたんですが、最初のテイクと同じ強度を2テイク目以降も出すのが難しい、と。それが自分の課題だとおっしゃっていて。実際に撮影をしてみて、ちょっとフォーカスが甘かったけど、芝居は圧倒的に1回目の方がいいので、そっちを本編に使っていたりするんです。そのぐらい、1回目の本番の瞬間を生きようとされると言いますか……すごくレベルの高いお芝居をされる方だなと僕は思いました。テストの段階などでも結構コミュニケーションをとっていたんですが、相手役の目を見たら、涙があふれてしまいそうだなと感じるときもあって、「であれば、テストでは目を見なくてもいいですよ」と話したり、色々と細かくやり取りをさせてもらいました。ただ、芝居に関しては事前に市子の人物像を共有していたので、杉咲さんの中から出てくるものを信頼してお任せしていました。1シーンだけ……ケーキ屋さんの前で北くん(森永悠希)と言い合いをするシーンのイメージが食い違っていたので、現場で改めて擦り合わせましたが、そこ以外は極めてスムーズに進んでいった覚えがあります。その上で、杉咲花という女優さんについて触れますと──凄かったの一言でもありますが、誠実で愛情深く、丁寧に役を心で感じ取る魅力的な方でした。特に凄かったのは、団地での小泉(渡辺大知)とのシーンは現場で見ていて圧倒されて……カットを掛けずにずっとカメラをまわしてしまったほどでした。また、ご本人から「市子はノーメイクで演じたいです」と言ってくださったんですが、僕もできればそうしてほしかったので、「そうしましょう!」とお伝えして。自分の見え方よりも役に寄り添うことを大事にしてくださる姿勢にも、改めて感銘を受けました。子役の方が市子を演じていたシーンからずっと現場にいらっしゃって、モニター前で少女時代の市子がどう動くかも見ていましたし、僕がそのようにお願いはしていたのですが、宇野祥平さんが演じられた後藤刑事とだけは本編で会わないので、宇野さんが現場にいらっしゃるときは隠れる……と徹底されていましたね。ご挨拶だけはして頂きましたが(笑)。
――映画『市子』を完成させて、どのような思いを抱いていますか?
社会的なメッセージを出したかったわけではないんです。1人の厳しい環境下に置かれた女性の人生をとにかく描きたかったという思いで作ったので──。ただ、自分の作品を作るときには社会的な問題を背景にすることが多くて、社会の中で生き辛さを抱える人の正義みたいなことを描きたい、「現代社会を生きている人間としてその人をどう捉えるんですか?」と自問もふくめて投げかけることは、いつも大事にしています。この作品も同様で、市子が壮絶な人生を生きなければならなかったのは社会のせいなのか、あるいは彼女の家庭に問題があったのか考えてもらえれば──という思いが自分の中にはあります。仮に市子の環境が整っていれば問題を起こさなかったかと言うと……それも分からないわけです。そういった部分もふくめての議題になれば、作り手としてはうれしいですね。それから、隣にいる人のことを簡単に分かったつもりになってはいけないんだな、ということもテーマにしました。
第三者から話を聞くと、自分の知っている相手と全然違ったりする場合もありますし、他者のことを先入観で判断すべきじゃないと、僕自身も改めて思いましたから──。願わくは、映画をご覧になった方が「市子のような人が、自分のすぐ近くにもいたかもしれない」……と想像を働かせてくださるきっかけになれば、本望です。
――観客へのメッセージ
僕が少年期に生きた1990年代。
大人になった今振り返ると、少年時代には気づけなかった闇が近くにあったように思います。
本作は、1人の女の子である「川辺市子」を、彼女と関わった人達の証言から、その人生を浮かび上がらせました。
偽りが多い世の中で、いつの時代も確かな他者を見つけるのは困難です。
多くの他者から見える印象で一人の人間を見つめ、見えてきたものとどう向き合うか。
それが現実的な他者との距離であり、接点だと思っています。
彼女の取った行動や、彼女の境遇。それを見つめたこの映画を観て「市子」をどう感じて頂けるのか……
色んな感想を聞きたいです。そして、議論をして貰えたらこの上なく幸せです。
その大切な役を、杉咲花さんに託しました。杉咲さんにお渡しするのが僕の願いでした。
捉えようの難しい脚本の中に居る「市子」が、杉咲さんの圧倒的な感性とエネルギーによって可視化され、顕在化されていきました。
撮影現場のその興奮を忘れられません。
市子は、僕たちの生きる世界線の地続きに、確かに生きている。そう思うのです。
沢山の人に、確かなことが届くことを期待しています。
戸田彬弘
Akihiro Toda
監督
1983年生まれ。奈良県出身。チーズfilm代表取締役。チーズtheater主宰。日本劇作家協会会員。映画監督、脚本家、演出家として活動。2014年に『ねこにみかん』で劇場デビュー。代表作は、映画『名前』(18)、『13月の女の子』(20)、『僕たちは変わらない朝を迎える』(21) 、『散歩時間~その日を待ちながら~』(22)などが有り、国内外の映画祭で受賞。舞台では、「川辺市子のために」がサンモールスタジオ選定賞2015最優秀脚本賞を受賞。ほか、チーズ theater 全作品の作・演出を担当。外部演出は、大竹野正典作「黄昏ワルツ」、横山拓也作「エダニク」、花田明子作「鈴虫のこえ、宵のホタル」、松田正隆作「海と日傘」など。近年は、佐久間宣行が企画、根本宗子が脚本を担当したsmash.配信ドラマ「彼の全てが知りたかった。」(22)を監督。舞台「ある風景」(23)が日本劇作家協会プログラムとして上演された。
ストーリー
誰の目にも幸せに見えた彼女は忽然と姿を消した――
川辺市子(杉咲 花)は、3年間一緒に暮らしてきた恋人の長谷川義則(若葉竜也)からプロポーズを受けた翌日に、突然失踪。
途⽅に暮れる⻑⾕川の元に訪れたのは、市⼦を捜しているという刑事・後藤(宇野祥平)。後藤は、⻑⾕川の⽬の前に市子の写真を差し出し「この女性は誰なのでしょうか。」と尋ねる。市子の行方を追って、昔の友人や幼馴染、高校時代の同級生…と、これまで彼女と関わりがあった人々から証言を得ていく長谷川は、かつての市子が違う名前を名乗っていたことを知る。そんな中、長谷川は部屋で一枚の写真を発見し、その裏に書かれた住所を訪ねることに。捜索を続けるうちに長谷川は、彼女が生きてきた壮絶な過去と真実を知ることになる。
『市子』予告編
公式サイト
2023年12月8日(金) テアトル新宿、TOHOシネマズ シャンテ、アップリンク吉祥寺、アップリンク京都、ほか全国順次ロードショー
Cast
杉咲 花
若葉竜也
森永悠希 倉 悠貴 中田青渚 石川瑠華 大浦千佳
渡辺大知 宇野祥平 中村ゆり
Staff
監督:戸田彬弘
原作:戯曲「川辺市子のために」(戸田彬弘)
脚本:上村奈帆 戸田彬弘 音楽:茂野雅道
エグゼクティブプロデューサー:小西啓介 King Guu 大和田廣樹 小池唯一 プロデューサー:亀山暢央
撮影:春木康輔 照明:大久保礼司 録音・整音:吉方淳二 美術:塩川節子 衣装:渡辺彩乃 ヘアメイク:七絵
編集:戸田彬弘 キャスティング:おおずさわこ 助監督:平波 亘 ラインプロデューサー:深澤 知
制作担当:濱本敏治 スチール:柴崎まどか
文化庁文化芸術振興費補助金(映画創造活動支援事業)独立行政法人日本芸術文化振興会
制作:basil 制作協力:チーズfilm 製作幹事・配給:ハピネットファントム・スタジオ
2023年 日本 カラー シネマスコープ/5.1ch/126 分 映倫G
©2023 映画「市子」製作委員会