『ワイルド・スタイル』ヒップホップ・カルチャーを全世界に広めた伝説的映画が40周年を記念して特別上映

『ワイルド・スタイル』ヒップホップ・カルチャーを全世界に広めた伝説的映画が40周年を記念して特別上映

2022-09-06 15:36:00

1983年に公開され、ヒップホップ・カルチャーを全世界に広めた映画『ワイルド・スタイル』。
2015年にもリバイバル上映された本作だが、ヒップホップが音楽やファッション、文化の中に当たり前に定着した今、もう一度全国のスクリーンに帰ってくる。

以下はアップリンクが運営していたwebDICEの、2015年公開当時の記事である。

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1983年に公開され、ヒップホップ・カルチャーを全世界に広めた映画『ワイルド・スタイル』公開中の渋谷アップリンクにて、4月15日、映画上映&HIPHOP講座「Back to 1983 in TOKYO-あの年、東京で何が起きたのか‐」が開催された。

今作の1983年10月の日本公開時、総勢36名の出演者・スタッフが来日し東京・大阪・京都でパフォーマンスを披露、日本のヒップホップ・シーン形成に大きな影響を与えた。今回は『ワイルド・スタイル』の日本における最初の公開の宣伝をプロデュース(配給は大映インターナショナル)した葛井克亮さんと奥様のフラン・クズイさん、そして聞き手として荏開津広さん、ばるぼらさんを迎え、まだヒップホップという言葉すらなかった当時の熱気が語られた。

渋谷アップリンクのイベントに登壇した葛井克亮さん(左)とフラン・クズイさん(右)



――ニューヨークで体感した強烈な熱気と見たことのないカルチャー

荏開津広(以下、荏開津):今日は、『ワイルド・スタイル』公開当時、東京で何が起こっていたのか、お話をうかがおうと思います。まずは公開までのいきさつをお願いします。

葛井:『ワイルド・スタイル』との出会いは、KUZUIエンタープライズという配給会社を設立する前、1982年でした。私とフランはニューヨークでアメリカのクルーが日本に来たときや、日本のクルーがニューヨークに来たときにコーディネートする仕事をしていました。そのときに、関係が深かった映画配給会社・大映の作品で、アメリカの配給先を決める手伝いをした『雪華葬刺し』(高林陽一監督)がニューヨークの「New Directors/New Films Festival」で上映されて、57丁目の劇場に観に行ったんです。

荏開津:葛井さんは1983年の前に、映画『人間の証明』(佐藤純彌監督)のロケでサウス・ブロンクスに行かれたそうですね。

葛井克亮(以下、葛井):助監督時代に『人間の証明』のロケのため毎日サウス・ブロンクスで、周りのアパートから朝から晩まで卵をぶっかけられながら撮影していて、非常に危険なイメージがあったので、二度と行きたくない、と思っていたんです(笑)。

その映画祭の会場で、普通の映画ファンでないお客さん、42丁目に来るブルース・リーの映画を観にくるような黒人がドッとやってきたので、何だろう?と思ったら、それが『ワイルド・スタイル』で、フランとこの作品を観ることにしました。

そうしたら、1982年当時珍しい、強烈な熱気と見たことのないカルチャーに驚きました。まだヒップホップという言葉もなかった時代ですが、その数年前にジャマイカに行ったときに、ジャマイカのレゲエのDJがスクラッチをするのを見たことがあって、ビーチに行くと私のことを「ブルース・リーだ!マーシャル・アーツを教えてくれ」と人々から言われて「カラテはそんなに簡単に教えられるものじゃない」とジョークで返したことがあったのを思い出しました。このカルチャーはジャマイカからやってきたものではないか、という印象を持っていたんです。ところが、監督のチャーリー・エーハンと知り合って話していると、「今までサウス・ブロンクスのストリートのキッズには縄張りがあってケンカが絶えなかったのが、地下鉄にグラフィティを描いたり、ラップやブレイクダンスで競い合うようになることで、暴力沙汰がなくなった」ということを聞いて、素晴らしい!と思いました。その映画祭には大映の専務たちも来ていたので、「ぜひ買ったほうがいい」と伝えたところ「よく分からないけれど、葛井が言うなら買おうじゃないか」ということになり、私たちが日本での宣伝のプロデュース・コーディネーターを担当することになりました。

公開にあたって、まず私はこの映画に出ているキッズたちを日本に連れてきて実際に日本の人たちに見せるのがいちばんだろうと思っていたけれど、大映のほかにスポンサーをどう探そうかと思っていました。

そんなとき、チャーリーから、池袋と渋谷の西武百貨店で行われる「ニューヨーク展」プロデューサーである高田さんを紹介されました。高田さんは『ワイルド・スタイル』に出ているようなキッズをイベントに出演させたがっていたので、「ぜひ協力させてほしい、デパートでショーをしてもらえればお金を半分出しましょう」と言われました。ところが「ツバキハウス」「ピテカントロプス・エレクトス」といったクラブでイベントをやることは考えていたんですが、デパートでイベントを行うことを、出演者たちに納得させなくてはいけない。ビジー・ビーには「そんなのやれるわけないだろ、ふざけるな!(Kiss My Ass!)」と言われてしまいした。

しかし、彼らは条件として「会場でシャンパンのモエを飲ませてくれれば出てもいい」と言うので、西武にも交渉し、出演が実現しました。

みんなを連れてくることが決まって、日程も映画のプロモーションとして東京のほか京都・大阪のツアーと、池袋と渋谷の西武でのイベントと、ブレイクダンサーとラッパーを二手に分けました。西武はグラフィティ・アートの展覧会がメインで、他にもキース・ヘリングやフューチュラやバスキアを呼んでペインティングを行いました。

――ポーズではなく、自然な生き方から出てきた文化

──(客席より):葛井さんが『ワイルド・スタイル』を日本に持ってきてくれたおかげで、37年間、毎日ほんとうに楽しいです。何も夢中になれなかった自分ですが、生きる意味をもらいました。そのことを御礼を言いたいです。

葛井:チャーリーにも伝えておきます。それから、今の方のお話を聞いてぜひみなさんにお伝えしたいことがあるのですが、今日私たちがここに来ているのは、楽しいことに参加するというのが信条だから。楽しい映画、好きな映画を配給したり、好きなものに自分たちが関わっていく。ただ、好きなだけでは何もなくなってしまうので、それを同時にビジネスにできないか、という発想で我々は生きています。ぜひ、楽しむだけじゃなくて、それを糧にして自分で何かやっていくほうがいいと思います。

フラン:みんなほんとうに素敵な人たちです。当時はとてもナイーブな年頃で、ただ楽しみたかったんだと思います。

葛井:自然にワイルドにしなければいけなかった。ポーズではなく、自然な生き方から出てきた文化だった。それが『ワイルド・スタイル』の魅力だと思います。現在、同じような映画をラップ・ミュージシャンで作っても、こういう生き様が出てくることはないでしょう。

数年前、25周年で、エンディングに出てくる野外劇場でイベントが開催されたんです。ビジー・ビーをはじめ、当時ワイルドだったキッズがみんなお父さんになって、子供を連れて来ていました、彼らの子供がブレイクダンスをやっているんですよ。現在でもコミュニケーションが続いているビジー・ビーもファブ・ファイブ・フレディも、『ワイルド・スタイル』を通して、アーティストとして成長していった。それは、単なる不良ではなく、アーティストとしてきちんと生きているから。

フラン:会場の外のギャラリーに展示されていたラジカセを見ましたか?(「WILD “BOOMBOX” STYLE‐ラジカセで辿るHIPHOP30年の歴史‐」)当時のB-BOYは有名になると、自分でラジカセを担ぐのではなく、付き人にラジカセを担がせて街を歩いていました。私たちはまだこの文化のなかで新参者でしたが、そうした人たちを見ると「この人にステイタスがあるんだ」ということが一目で分かったのです。

当時はロック・ステディ・クルーもファブ・ファイブ・フレディも知られてはいましたが、そこまで有名ではありませんでした。現在のヒップホップは自分のステイタスを誇示するためにポーズをしますが、当時は自分を強く見せるしか生きる術がなかった。そこが違いです。ジャラジャラとアクセサリーを身につけるヒップホップのファッションも、自分がお金持ちなんだとアピールするためのものではなく、ただ楽しむためにやっていたのです。

――Bボーイよ、楽しみ続けるんだ(チャーリー・エーハン監督)

──(観客からの質問):最初の、ジャマイカでスクラッチがあったというお話で、ヒップホップの歴史だとグランド・ウィザード・セオドアがスクラッチを発明したということになっていますが、それ以前に、ターンテーブル上のレコードを巻き戻すだけでなく、擦って音を出していたことが行われていたということですか?

葛井:私たちが行ったのは1978年か79年くらいです。ジャマイカの青空クラブや、サンスプラッシュでも、キュッキュッとやっているのを見たので、そこから来ているのではないでしょうか。

フラン:DJがバトルをしていました。

荏開津:ヒップホップのルーツを作ったと言われるDJのクール・ハークもジャマイカ出身ですからね。

──(観客からの質問):今回のポスターもカセット・ブックでも、主演のリー・ジョージ・キュノネスが写っていないのが不思議で、来日もしていないですよね?それは何か理由があるのでしょうか?

葛井:私は彼に会ったことがないのですが、きっと気難しい性格なんじゃないでしょうか。来日についても、もともと興味がなかったのか、オーディションにも来ていないですし。今度チャーリーに聞いてみます。

ばるぼら:リーはグラフィティを人前で描くというのがイヤで、今作に出てくる作品も実はリーが描いていないという話もありますよね。だから、自分がアンダーグラウンドという意識があったんじゃないかという気がします。それから、チャーリー・エーハン監督とはその後、新しい映画を作る予定だということが葛井さんの本に書いてあったのですが?

葛井:あの時はチャーリーと次の作品を作ろうかという話はしていましたが、なかなか難しかった。チャーリーは『ワイルド・スタイル』一筋ですから、今でもこれ一本で生きています。

フラン:チャーリーと彼の奥さんとは映画ができたときから現在までずっと友情を築いています。チャーリー・エーハンからメッセージを預かっているので、披露します。

「東京は1983年に行ってからずっと大好きな街です。サウス・ブロンクスから36名のヒップホップのパイオニアを日本に連れて行って、東京の魔法にかかりました。以前ツアー・ブックに書いたこの言葉をみなさんに送ります。“グラフィティはニューヨークで最も面白いことだ。Bボーイよ、楽しみ続けるんだ”」。
──チャーリー・エーハン

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ストーリー

1982年、ニューヨーク、サウス・ブロンクス。レイモンドは謎のライター❝ZORO❞として、深夜の車両基地へ忍び込み、地下鉄にグラフィティを描いていた。❝ZORO❞のグラフィティは評判を呼んだが、違法行為のため正体を明かせずにいた。そんな時、レイモンドは新聞記者ヴァージニアと出会い、仕事としてグラフィティを描かないか、と誘われるが・・・。

 

チャーリー・エーハン監督

1951年、ニューヨーク、ビンガムトン生まれ。1973年にホイットニー美術館のアーティストプログラムに参加するためニューヨーク市に移住。1979年には、『ワイルド・スタイル』を撮影する直前に製作された、スーパー8で撮影したヒップホップ・カンフー映画の『ザ・デッドリー・アート・オブ・サバイバル』を製作、その作品をきっかけに、ファブ・ファイブ・フレディと知り合い『ワイルド・スタイル』を製作することになった。1992年には、『ドゥイン・タイム・イン・タイムズ・スクエア』がニューヨーク・フィルム・フェスティバルにて公開。また、キキ・スミスを始めとする多くのアーティストについての短編を製作した。そして、2001年の7月には自らが脚本と監督の両方を務めた長編映画、『フィアー・オブ・フィクション』が公開された。監督最新作は写真家のジャメール・シャバズのドキュメンタリー『Jamel Shabazz Street Photographer』。妻、双子の兄弟ジョンもアーティストで、最近長く住んだマンハッタンのトライベッカ地区からブルックリン、ブッシュウィック地区に引っ越した。

 

予告編

 

公式サイト

9⽉2⽇(金) ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿シネマカリテ、アップリンク京都ほか全国順次公開

監督・製作・脚本:チャーリー・エーハン
音楽:ファブ・ファイブ・フレディ、クリス・スタイン
撮影:クライブ・デビッドソンジョン・フォスター
出演:リー・キノネス、ファブ・ファイブ・フレディ、サンドラ“ピンク”ファーバラ、パティ・アスター、グランドマスター・フラッシュ、ビジー・ビー、コールド・クラッシュ・ブラザーズ、ラメルジー、ロックステディクルーほか

1982年/アメリカ/82分/スタンダード/DCP
 
配給:シンカ

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