2月4日(土)にアップリンク京都にて行われた映画『シャドウプレイ【完全版】』の公開記念トークショーに映画評論家の北小路隆志さんが登壇

2月4日(土)に、アップリンク京都にて全国順次公開中の映画『シャドウプレイ【完全版】』の公開記念トークショーが行われ、映画評論家の北小路隆志さんが登壇した。



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はじめに

皆さん、『シャドウプレイ【完全版】』(2019年)をご覧いただいたばかりだと思いますが、いかがでしたでしょうか? 先日朝日新聞でこの映画の評を書きました(2023年1月27日 夕刊)。今日のお話もその主旨は共有することになると思いますが、とても短い評なのでそこでは言い切れなかったところ、また今週から過去作も上映されるということもあり(京都:2月4日~2月9日/吉祥寺:2月17日~)、ロウ・イエという監督についてもより関心を持っていただき、是非過去作も観に行こうという気になって頂けるような話ができればと思っています。

──映画の冒頭のシーンについて

冒頭、河に舟が浮かんでいて、白いモヤがかかっているという画から始まります。そのショットがいくつか続いて、河の側で「死体」が発見されるという重要なエピソードにつながるわけですが、この冒頭のシーンは、ロウ・イエという作家の過去作とも容易に関連付けることができます。

例えば、『ふたりの人魚』(2000年)という作品、僕にとって初めて観たロウ・イエの作品なのですが、その作品も河から始まります。原題自体も「蘇州河」というタイトルです。

上海の街に流れる河で、ボート上から撮影している移動のショットが断片的に続きます。河から街を見るような始まり方をしている。『スプリング・フィーバー』(2009年)という映画も、河ではないのですが、水があり、そこに花が浮いているというショットから始まる。他に例を挙げることもできますが、こうして考えると、河から始まるということはロウ・イエにとって大事なことなのではないか。

「水」は官能性であるとか、色々な類推の仕方ができる物質であり、それも無関係ではないでしょうが、よりロウ・イエの作品に即して言えば、おそらく”大地に根差してゆったりと生きる”みたいな人は、彼の映画には出てこないのです。常に流動している、流れていく、そうした安定性を欠いた舞台の上で、ロウ・イエの映画の登場人物たちは彷徨うことになる。これは『シャドウプレイ』もそうだし、どの作品を観てもそうです。そういう意味では「水」というものが一つのテーマとして彼の映画の中にある。例えば、どの作品にも出てくる雨も、その変奏でしょう。

もう一度、冒頭のシーンに戻ると、モヤがかかっていて視界が悪い、もっと言うと全体を見渡すことができない、という点も注目される。最初観ているうちは水墨画みたいな感じもするのですが、実は、そういう水墨画的な世界ほどロウ・イエの映画から縁遠いものもない。あの風景は一見、雄大ともとれるかもしれませんがあ、むしろ視界を遮るものがとてもが多く、将来をちゃんと見通した上で動けるという状態ではないような、そんな見通しの悪さというものも示唆されているように思います。

実際、この映画では、その直後から犯罪めいたものも色々と出てきて、その謎を解き、モヤを晴らすための試行錯誤が、映画のストーリーに組み込まれていくことになるのです。

我々は確かに大地の上を生きるが、そこにしっかりと根付いて生きるというような状態ではなく、しかも、将来の見通しも分からない。みんな手探りで生きざるを得ないが前進は続ける、という状況に、ロウ・イエの映画の登場人物ほぼ全員が置かれているのだと思います。

今週上映されることになっている『ブラインド・マッサージ』(2014年)は、とても不思議な映画で、最初に観た時、なぜこんな映画をロウ・イエが撮ったのだろうとも思いました。しかし、これまでお話してきたような、見通しの悪さ、全体を見渡す視点の欠如、といったことが彼の映画の基底にあるとすれば、ほぼ視覚障碍者だけが登場人物として出てくる、あの映画もまた紛れもなくロウ・イエの作品であると納得できるのではないでしょうか。

視覚障碍を持った人たちに世界がどう見えているか、を表現しようとするショットも同作にはかなりあるのですが、いずれにしても、そこでは当然のこととして見通しの悪さが支配的です。そして彼の作品全体として、人が手探りで前進するしかない状況が、彼の世界観みたいなものとしてあるのだと思います。

僕が無駄に深読みしようとしているだけなのかもしれませんが、河があって、そして視界が悪い状態から『シャドウプレイ』は始まり、それが重要であると思える。その後、ご覧いただいたように男女がひとけのない所でセックスみたいなことを始めようとしますよね。視界が遮られている状態だからこそ彼らにとっては都合がいいわけです。そこであの死体が見つかるという流れになっています。この死体がまた鍵を握るわけですが、そのことについては後で話します。

この”手探りで生きるしかない””視界が悪い”という状態は、やはりロウ・イエの映画の中で繰り返し現れる、性愛的な、セクシャルな部分の描写とも関わってくるのではないか。『シャドウプレイ』はそれ程でもないかもしれませんが、彼の映画ですごく前面に出てくる部分ですね。視覚的に誰かと分かり合うというよりも、文字通り触覚的な接触というものだけが信じられるというか、それを頼りに前進するしかないような登場人物の在り方もまたロウ・イエの映画の特徴であるかと思います。

──メイキング映画『夢の裏側』について

この映画には、『夢の裏側』(2019年)というメイキング作品があります。僕は観させていただいたのですが、本当にその現場自体がSF映画みたいで、カメラを搭載したドローンが飛び回っている中をみんなが走り回るといった撮影風景を観ることができます。ロウ・イエの映画でのドローンの活用自体は、おそらくこの2作品前の『二重生活』(2012年)からでしょう。

『シャドウプレイ』でも、特に冒頭の川辺から広州の街に入っていくときに印象に残る空撮が行なわれ、あの都会の中の廃墟のような場所に辿り着き、いきなり大勢の人間が出てきて、再開発しようとする側とそれに抵抗する側の争いがある。これも『夢の裏側』で詳しく話されていますが、実際に起こった出来事を下敷きにしつつ、(一部フィクションもありますが)撮影場所も実際にそこで争われたような所で、なんとか撮影許可を得て撮ったということのようです。

──「フィルムノワール」について

『シャドウプレイ』について、映画の研究者というか評論家的にお話しすると、まずこれは「フィルムノワール」の系譜にある作品であると気づかされます。フィルムノワールというのは元々フランス人たちによって命名されたジャンル名です。第二次世界大戦中、ナチスに占領されたフランスではアメリカ映画を観ることができないわけです。で、戦後になって解放され、それまで観られなかった1940年代前半のアメリカ映画をまとめて観てみると、随分と暗い映画ばかりで(注:ノワール noir は「黒」を意味するフランス語)、要素として犯罪が絡んでいる映画がたくさんあるように思われた。

そうした映画をフランス人たちがフィルムノワールというジャンルにまとめ、定義したのです。映画研究者の中には映画ジャンルを研究対象にする人が多いのですが、フィルムノワールとは、まさに映画評論家、研究者が作ったジャンルで、実際にフィルムノワールを研究する人たちもたくさんいます。

僕自身は「フィルムノワールが好きだ」などと言う“男の子”たちが嫌いなので、あんまり真面目に勉強してこなかったのですが、でもその研究の成果はとても豊かなものです。『シャドウプレイ』では、まず事件が起こり、解決するために若い刑事が出てくる。その彼の足取り、誰が犯人でなぜ殺されたのか、という謎を解き明かそうとしていく、その動きが物語を形成していく点で、フィルムノワールの王道といっていい。

ただ、一般の刑事ものだと、警察が正義を代表して悪を突き止めるぞ、という風に善悪をはっきりさせる傾向があるのですが、フィルムノワールだと、それが曖昧になる。私立探偵が主人公だったりする場合があるのですが、私立探偵は警察ではないし、どこか犯罪者の側に共感を持つのです。そういう意味では善と悪の区別が曖昧である、とされる点も、フィルムノワールの特徴で、だからこそ、このジャンルの映画は妙に暗いわけです。

『シャドウプレイ』の刑事の場合、一応、純粋な正義感になっていて、その辺りは微妙ですが、彼が警察を辞め、私立探偵になることで最終的に事件の真相に辿り着く、という設定が面白く思えます。もう一つこの映画で顕著な特徴といえば、やはり複雑な時間の在り方ですよね。実際、フィルムノワールの一つの特徴として、正直一度観ただけではよくわからないと思うような映画が多いことが挙げられます。

ご覧になった皆さんは実際どうお感じになったでしょうか。例えば映画に何度も字幕が出てきて、“この場面は2006年の話です”“2013年です”などと説明されますが、「あれはオリジナルにあったものですか?」と先ほど登壇する前にアップリンクの方に訊いてみましたところ、元々は無くて、日本で公開される際に付けたものだそうです。

あの字幕があっても、それでもまだ時制のつながりが掴み切れずにいる方も多いとは思うのですが、さらに字幕が無かったとすると、一度観て理解するのは相当大変な映画であることは確かです。

フィルムノワールの特徴の一つとして、時間、時制が入り組んでいて、一度で全て理解できる起承転結的な展開じゃない映画であるという点があり、これは先ほどの“見通しの悪さ”ともつながるでしょう。そしてもちろん謎めいた女性の存在も特徴であり、ここでも『シャドウプレイ』はそうしたジャンルの規則と合致します。

彼自身がフィルムノワールというジャンルをどこまで意識しているかはわかりませんが、一観客として僕は、ロウ・イエは現代中国、改革開放路線以降の中国のあり方を、フィルムノワール的なスタイルの設定で追求することに挑戦している監督だと思っています。

──もう一つのジャンル「メロドラマ」について

もう一つジャンルとの関わりでお話ししたいのが、「メロドラマ」です。普通、犯罪映画であるフィルムノワールとメロドラマって全く違うような気がしますが、女の人が主人公の女性映画的なものやホームドラマ的なものがメロドラマだという固定観念めいたものそれ自体が、実は1950年代のハリウッドの遺産であり、最近そう根付いただけだと色々な研究者が明らかにしています。それ以前のアメリカ映画をめぐる言説を読んでいると、メロドラマとは女性映画的なものであるといった僕らの思い込みとは逆に、男性的なジャンルと思われたりもしていたようです。

フィルムノワールに該当する作品も実際、フィルムノワールと呼ばれる前は“殺人メロドラマ”と言われていたようです。『シャドウプレイ』はまさしく“殺人メトロドラマ”ではないでしょうか。男女の三角関係があり、父と娘の確執があって、結局すごく感情に訴えるような展開になる。フィルムノワールでそういったストーリーを描くことが決しておかしい訳ではなく、フィルムノワールとは元々犯罪や殺人絡みのメロドラマなのです。そうした意味でも由緒正しきというか、フィルムノワールの色々な要素がうまく組み込まれた作品だと感心させられます。

話が前後しますが、時制の複雑さでいえば、お気付きになったかと思いますが、かなり大胆なことをやっています。殺された男性の結婚式のシーンがあります。1990年でしょうか、そうした過去の時代設定で結婚式が行われ、カップルが外に出て車に乗って去っていくのですが、そのまま同じショットの中に刑事が現れることで、2013年の世界が始まり、その結婚式が行われていた写真店に彼が入っていくというシーンがあります。

精神を病んだ人たちが収容される病院の場面でも同じようなことが起こります。事件に関連するかもしれない、過去に失踪した女性を調べている刑事が書類を見ていて、その後ろを女性看護師さんが通過していくと、カメラがそれを追いかけ、それまで2013年の話だったはずなのに、いきなり2000年の話にワンカットの中で移行している。つまり刑事の足取りを追いながら、さまざまな時代に移行したりまた戻ったりを繰り返し行う。しかも、それが決して難解なアート系の映画だという印象を僕らに与えない形で展開される。それがやはり『シャドウプレイ』の面白さです。

──映画『シャドウプレイ』と資本主義

現代中国の資本主義、”現代”というより、今となっては、もはや”過去”のことかもしれませんが、改革開放以降の中国の資本主義について映画でアプローチする上で、”犯罪メロドラマ”というジャンルがふさわしい、と恐らくロウ・イエは思ったのではないかと先ほど言いました。それをもう少し別の角度から話します。「資本主義とは何か」ということを色々と話し出すとキリがないのですが、例えば僕の世代ですと、冷戦が終わり、中国がどんどん豊かになっていく様を、僕は中国映画や中国の専門家ではないですが、嫌でも見聞きしてきました。

中国はどのような資本主義になっていくのだろう? 社会主義という体制や共産党の一党独裁を残しながら市場経済を導入し、資本主義化していく。実際人々はどんどん豊かになっていく。もちろん格差等はありますが、全体(国力)として豊かになっていく中国を、まさに大がかりな実験を見るかのように僕らは見ていたわけです。

一体、彼らはどんなお金持ちになるのだろう? 僕の素朴な感想は、結局「人はお金持ちになっても、ロクなことにしかお金を使わないのだ」ということでした。豪華な家を建て、車を何台も持ち、別荘を持ち、観光旅行で、嫌な言葉ですが、“爆買い”する。結局そういうことなのだと。

つまり、僕自身の実感として、実験として始まったはずの中国の資本主義は、結局すごく凡庸なものでしかなかったのだということでした。

ただ『シャドウプレイ』を観て、そんな素朴な実感では収まりのつかない刺激的なドラマが描かれていると思いました。そして、そこに鍵を握ると最初にお話しした「死体」の問題が絡んでくるのです。

若い刑事がスキャンダルに引きずり込まれ、香港へ逃げ、探偵をしている男性と久々に再会した際、「お前のニュースは確かにえらいスキャンダルになった。だけど人はすぐに忘れる。次の誰かのスキャンダルを待っているだけだ、まあ何とかなるよ」というようなことを探偵が話し、慰めます。

やや大げさかもしれませんが、これは資本主義そのものへの言及に聞こえます。資本主義とは、そのようにして新しい商品、新しい技術、そして新しい組織のあり方などを導入し続ける動的なシステムであり、その辺の柔軟性やダイナミズムはやはりすごいものがあるわけです。マルクスなど、昔から資本主義の悪口を言う人さえもそこには魅了されてしまうのです。ものすごいダイナミズムを持ち、常に更新を繰り返し、変化を恐れない。それが資本主義の本質だと。

一時は社会に広がってしまったスキャンダルもすぐに忘れ去られる、という風に前へ前へと手探りでも進んでいく。それが資本主義なのです。

そこで死体の話に進みます。もちろん死体が出てこない映画もありますが、ロウ・イエの映画で死体はどのような役割を担うのか。『シャドウプレイ』と構造的に一番近い作品は、今週の特集上映にはありませんが、『二重生活』という映画だと思います。その映画では、冒頭に若い男女が出てきて、車を飛ばして遊んでいます。雨が降っていてやはり”視界が悪い”中、不意に前を見ると、女性がふらっと道路の中央に歩み出てきて轢いてしまう。そしてその女性は死ぬのです。

映画の冒頭に死体がボーンと出てくるという設定を、『シャドウプレイ』と『二重生活』は共有しているわけです。

『シャドウプレイ』は、なぜあの空撮によって導入される2013年からではなく、2006年の河辺のあの死体、後になぜそこにあるのかを僕らが知ることになるあの死体から始まらなければならなかったのか? 僕の考えでは、あの死体が登場人物たちにとって、忘れたいけど忘れられないものだったからなのです。

彼女はもう数年前に死んではいるのですが、しかしその死体が残っている。ご覧頂いたように登場人物たちは殺人を犯してしまったという秘密をお互いに共有しながら、でもそれを忘れたかのように前に進もうとしている。だがあの死体がどこからともなく蘇り、その経緯に興味を持ち事件の謎を解こうとする刑事が出てくる。その死体を通して、そんなことは忘れ、前に進めばいいじゃないか、と「現在」の金儲けに奔走する人たちがどうしても「過去」に引きずり込まれてしまうのです。死体は物を言いませんが、でも寡黙ながら確かにあの死体は過去の存在を主張しているのです。そして、そうした構造は『二重生活』でも同様なのです。

『シャドウプレイ』ではたくさんの人が死にますが、冒頭にあの女性の死体が発見されるっていうことが大きい。

これは中国に限らないとは思いますが、過去を忘却することで前進を繰り返す資本主義、どんどんイノベーションを繰り返し、手探りの状態であっても闇雲な金儲けに走る資本主義の原理に対し、それはおかしいと否を突きつけるのが死体であって、その金儲けの下部構造にあった過去の悪事が不意に明らかになることで、登場人物たちの足元を掬う。その象徴が死体なのです。

資本主義を決して肯定せず、資本主義のあり方への抵抗として物言わぬ死体が出現し、そしてそれが登場人物のみならず、映画全体を呪縛するような事態が、この映画で描かれているように感じます。

──最後『シャドウプレイ』について一言

いろいろと話してきましたが、『シャドウプレイ』は見事な映画だと思います。例えば『パープル・バタフライ』(2003年)というロウ・イエの初期作品を観ると、確かに歴史大作的な装いがあり、ある種の時代や歴史を描くものでした。1930年代に対立や戦争の最中にあった日本と中国の関係を、日本人の男性と中国人の女性の男女関係と重ねつつ描こうとしたメロドラマですが、僕の考えでは失敗している。男女関係という小さな話と同時に大きな歴史をも語ろうとする、その野心的な試みが成功しているとは思えない。

ところが、『シャドウプレイ』ではそんな難しい試みが見事に成功を収めている。現代中国の資本主義を数十年のスパンで描き切るうえで、どうしてもフィルムノワールもしくはメロドラマの方法論が必要であった、と僕らを納得させるほどの達成が見られる。

そんな意味で、この映画は、これまでのロウ・イエの足跡が卓越した水準にまで到達したものであり、彼にとって現時点での最高傑作と言っていいのではないかと考えています。

本日はありがとうございました。

 

 

予告編



公式サイト DICE+紹介記事リンク

1月20日(金) アップリンク吉祥寺アップリンク京都、新宿K'sシネマ、池袋シネマ・ロサ、横浜シネマ・ジャック&ベティほか全国順次公開中

監督:ロウ・イエ
脚本:メイ・フォン、チウ・ユージエ、マー・インリー
撮影:ジェイク・ポロック
録音:フー・カン
オリジナル音楽:ヨハン・ヨハンソン、ヨナス・コルストロプ
編集:ジュー・リン 美術:ジョン・チョン
衣装:マイ・リンリン ヘアメイク:ジョー・イエン
ライン・プロデューサー:シュー・ラー
プロデューサー:ナイ・アン、ロウ・イエ、イー・ジア
エグゼクティブ・プロデューサー:チャン・ジアルー、ロウ・イエ
出演:ジン・ボーラン、ソン・ジア、チン・ハオ、マー・スーチュン、チャン・ソンウェン、ミシェル・チェン、エディソン・チャン

2019年/中国/129分/北京語・広東語・台湾語/DCP/1.85:1/原題:風中有朶雨做的雲

日本語字幕:樋口裕子
配給・宣伝:アップリンク

©DREAM FACTORY, Travis Wei