『ワンオペレーション』天井の穴、娘のお腹の穴、クジラの背中の穴…。

『ワンオペレーション』天井の穴、娘のお腹の穴、クジラの背中の穴…。

2026-09-15 08:00:00

小さな娘のお腹につながれた医療機器の示す数値のネオンが、彼女の顔を赤く照らす。

彼女が数量を計り、すり潰した栄養剤が、チューブを通って娘のお腹へと流れていく。

心理カウンセラーとして働くリンダは、客船の船長をしている夫がたびたび長期出張に出るため、ほとんど一人で娘の世話をしている。同じ年頃の子どもと比べて体重が極端に少ない娘は、日々の生活にも医療的なケアが欠かせない。

病院スタッフからは非現実的な目標体重と次回の面談の日取りを迫られ、駐車場の警備員からは執拗に一時駐車の注意を受ける。さらには海の上にいる夫からの途切れ途切れの電話、そして彼の無神経な父親らしい発言。そんなもろもろをくぐり抜けながら彼女は娘を乗せて車を走らせる。職場であるクリニックではさまざまな患者の悩みや妄言を、落ち着いて、いや自分の状況を押し殺すように必死に聞き入れ、話し相手となる。そしてつぎの患者を部屋に招く前、クッションの弾力のなかに叫び声を送り込む。

この切羽つまった日々をどうにか送っているリンダに追い打ちをかけるようにして、一瞬の爆音とともに、ようやく帰宅した彼女の目の前で、天井の壁が落っこちる。

「この作品は、事実に基づく自伝映画ではまったくない。けれど、描かれていることはすべて、感情的には真実」。

そう語るメアリー・ブロンスタイン監督は、2008年にグレタ・ガーウィグが出演するインディー映画『Yeast』で脚本・監督を務めている。揺れ動く20代の友情の力学を描いたこの作品は、ニューヨーカー誌から「マンブルコアの傑作」と評された。その後は映画づくりから離れ、心理学を学び、娘を育てる。そして最終的に 7 年をかけて完成させたのが本作『ワンオペレーション』だ。

 

私は、カウンセラーにもカウンセラーがいるということを、この映画をみて初めて知った。

心理カウンセラーであるリンダは、診察の前なのかあいだなのか、必要に応じてなのか、同僚である男性カウンセラーのもとで、彼女の患者が彼女にたいしてするように、自分自身のことをぶつける。

「私はいつも考えてしまうのよね。あのセラピストにもセラピストがいて、そのセラピストにもまたセラピストがいる。じゃあ、セラピストの連鎖の頂点に立つのは誰なの?って」。ブロンスタイン監督は、援助する側とされる側がずらずらと並ぶ様子を思い浮かべながら、まるでマトリョーシカのようだと話す。

夜、眠りにつく前、娘がリンダに歌ってとねだる「クジラの歌」。母娘が寝そべりながら、呟くように歌う。

Sit beside the breakfast table
Think about your troubles
Pour yourself a cup a tea
And think about the bubbles

〈朝食のテーブルのそばに座って
悩みごとを考えてみて
お茶を一杯淹れて
泡のことを考えてみて〉

エンドロールでも娘がひとりで歌うこの曲の歌詞がとても気に入って調べてみたら、それは子守唄ではなく、1970年にアメリカのシンガーソングライター、ハリー・ニルソンが発表した「Think About Your Troubles」という楽曲だった。

その歌詞をすべてここに書くことはできないけれど、涙をティーカップに落とし、それを川へ流す。涙は流れにさらわれて海へ運ばれ、魚に食べられ、その魚はまたべつの魚に食べられ、最後にはクジラに飲み込まれる。年老いたクジラはやがて死に、その身体は海の底で朽ちて分解され、また海へと戻っていく、という内容だ。

マトリョーシカのような、海の中の食物連鎖や循環のような、リンダの怒涛の日々のような、繰り返し。

娘のお腹にあるチューブの穴を思い浮かべていたら、それはいつの間にかくじらの背中の黒い穴に変わって、そこから泡のように水が弾け飛ぶ。そしてその水が、天井に空いた大きな穴を勢いよく通過する。穴から放出されているのか、それとも吸い込まれているのか、ここからはわからない。いつしかそんな空想をしていた。

(小川のえ)

イントロダクション

本年度アカデミー賞作品賞受賞作『ワン・バトル・アフター・アナザー』プロデューサーのサラ・マーフィ、同賞作品賞ノミネート作『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』監督・脚本のジョシュ・サフディら、現代アメリカ映画界を牽引するクリエイターたちが製作に名を連ね、アメリカの気鋭スタジオ、A24が放つ本作『ワンオペレーション』。

家事、育児、仕事をひとりで抱え込んだ女性の極限状態を描きながら、現代社会に潜む“ワンオペ”という構造的な問題に鋭く切り込んだ異色作だ。

鋭い社会性をみなぎらせながら、スリラー、心理ドラマ、ダーク・コメディなどのジャンルが渾然一体となり、主人公の日常とアイデンティティが崩壊していく悪夢を観る者に体感させる。

ストーリー

家事と育児、セラピストの仕事に追われるリンダは、原因不明の病を抱える幼い娘の世話に追い詰められていた。

顧客の患者への対応、娘の担当医からの叱責、出張中の口うるさい夫からの電話──休まる暇もない日々の中、自宅アパートの天井が突然崩落し、娘とともに海辺の格安モーテルへ移り住むことに。

誰にも頼れない孤独のなかで限界を迎えた彼女は、思いもよらぬ事態へと飲み込まれていく──。

メアリー・ブロンスタイン監督プロフィール

1979年、米ニューヨーク州ホワイトプレーンズ生まれの俳優、脚本家、監督。2008年に『Yeast』で 長編映画監督デビューを果たし、作家性の強いアプローチ、複雑な女性たちの物語を見据えた作風で知られる。現在は映画作品に加えて、彼女は独創的なフェミニスト理論をいくつかの学術的出版社のために執筆している。

アップリンク京都 ほか全国劇場にて公開 

公式サイト

監督・脚本:メアリー・ブロンスタイン

出演:ローズ・バーン、コナン・オブライエン、エイサップ・ロッキー、ダニエル・マク

ドナルド

2025 年/アメリカ/英語/113 分/2.39:1/5.1ch/カラー/原題:If I Had Legs I’d Kick You/日本語字幕:堀上香/配給:東京テアトル、シンカ

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