『シンプル・アクシデント/偶然』その“偶然“は、神様の仕業なのか―。

『シンプル・アクシデント/偶然』その“偶然“は、神様の仕業なのか―。

2026-05-04 08:00:00

ある夜、工房で働くワヒドのもとに、車の故障を直してほしいと男がやってくる。

2階で電話中だったワヒドの表情が、一瞬にして固まる。階下から響いてくる、男が義足を引きずる音。

その音は、昔不当に投獄され、目隠しをされた状態のワヒドに残忍な拷問を加えた看守“義足のエグバル”が立てていた音と、まったく同じだった。

ワヒドは衝動的に男を襲い、バンに乗せ連れ去る。そして砂漠に生き埋めにしようとするが、まだ生きている男は、この義足は去年の事故で負ったもので人違いだ、と抵抗する。

確信が持てなくなったワヒドは復讐を一旦中断し、かつて同じ男から拷問を受けたことのあるカメラマンの女性シヴァ、シヴァがウェディングフォトを撮影していた新郎新婦のアリとゴリ、そしてシヴァの元恋人のハミドを巻き込みながら、男がエグバルなのかを暴き、復讐を企てていく…。

車の中。バンの中。限られた空間の中で会話を交わし、どこかへ向かう人々。その設定は、ジャファル・パナヒ監督の『人生タクシー』(15)や、パナヒ監督の息子パナー・パナヒ監督の『君は行く先を知らない』(21)を思い起こさせる。

パナヒ監督は2010年と2022年に、二度にわたる収監経験をもつ。本作の登場人物ワヒド、シヴァ、ハミドたちはみな架空の人物だが、その背景には監獄で監督自身が経験したことや、雑居房で出会った囚人たちの記憶が濃厚に重ねられている。

『人生タクシー』の一場面で、タクシー運転手に扮する監督は、唐突に姪へ「あの音が聞こえなかったか?」と尋ねる。姪は何も気づいていない。だが監督は、遠くで鳴った物音がまた聞こえるのではないかと、耳を澄ませつづける。

「ハンガーストライキのあと釈放された時は、茫然とした。外の世界でどう生きていけばいいか分からなかった。自由になったという安堵と、後に残してきた囚人たちへの気がかりとの間で引き裂かれるような思いだった。その葛藤はずっと残っていて、いまだ抜け出せずにいる」。

ワヒドが男を埋めるための穴を掘った場所。荒野の中に、枯れた一本の木だけが立つその風景は、『ゴドーを待ちながら』の舞台装置のようだ。

そしてその後『ゴドーを待ちながら』は、シヴァとハミドがかつてデートで観た演劇としてきちんと引用される。

ゴドーという人物を待つ二人の男。そもそもゴドーとは誰なのか。果たして本当に来るのかどうか。さらには彼ら自身、なぜ待っているのかすらわからない。けれど彼らは喋りつづけ、待つことをやめない。そしてついに、“ゴッド(神様)”を思わせるその名前のように、ゴドーは彼らの前に現れることのないまま、舞台は終わる。

この宙吊りの状態は、ワヒドたちが立たされている状況によく似ている。

男は本当にエグバルなのか。復讐は正しいのか。殺せば何かが終わるのか。誰も確信できないまま、彼らは車を走らせ、行ったり来たりの議論をつづける。

道徳をめぐる議論の中に居座りつづける不条理。不条理の中に消えてしまわない滑稽さ。滑稽さの奥に残る不気味さ。

『シンプル・アクシデント/偶然』。その“偶然”の始まりは、疑惑の男が妻と娘を乗せて帰宅する途中、夜道で犬を轢いてしまうことだった。

急に飛び出してきた。しかも道が暗かったから。これはただの事故。かわいそうだけれど仕方ない。神様は理由があって飛び出させたのだそう語る両親に対して娘は断定する。「パパが犬を殺した。神様とは関係ない。」

「偶然だった」「仕方なかった」「命令だった」「時代だった」。

「神様は理由があって…」。そんな運命化する言葉によって、暴力は何度も曖昧にされてきたように思う。

本作はその曖昧さに対して、“本当にそれは偶然なのか?”と問い返していく。しかしパナヒ監督はその問いを告発や説教として一直線に突きつけることはしない。そして『ゴドーを待ちながら』のように、真実や正義、救済は最後まで完全には姿を現さない。

ラストシーンが、脳に、耳に、こびりつづけている。

(小川のえ)

イントロダクション

ウェス・アンダーソン、ダルデンヌ兄弟、リチャード・リンクレイター、アリ・アスターといった錚々たる著名監督の最新作、『センチメンタル・バリュー』『シークレット・エージェント』など高評価な作品が集った2025年の第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門。

激戦を制して栄えある最高賞のパルムドールに輝いたのは、ジャファル・パナヒ監督作品『シンプル・アクシデント/偶然』だった。

イランの巨匠として知られるパナヒは、『チャドルと生きる』(2000)でヴェネチア国際映画祭金獅子賞、『人生タクシー』(2015)でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞しており、本作のパルムドール受賞により世界三大映画祭のすべてで最高賞を獲得。これは史上4人目の特筆すべき快挙である。

ある“偶然の事故”を発端とする本作は、復讐ドラマの形をとって進行しながらも、予測不能のプロット、重厚なスリルと深遠なミステリー、人間味豊かなユーモア、そして強権国家イランの現実が渾然一体となり、誰も観たことのない斬新な社会派サスペンス・スリラーへと変容を遂げていく。

本作への熱狂的な賛辞はカンヌ以降もとどまるところを知らず、世界各国の映画祭、映画賞を席巻。第98回アカデミー賞®脚本賞・国際長編映画賞(フランス代表)の2部門でのノミネートも果たした。まさに2026年、見逃すことのできない破格の話題作である。

ストーリー

かつて不当な理由で投獄されたワヒドは、ある偶然によって、自分に酷い拷問をした看守らしき男に出会う。

咄嗟に強引な手段で男を拘束し、荒野に穴を掘って男を埋めようとするが、男のIDカードを見ると、復讐相手と名前が違う。男も、人違いだと言う。

実は投獄中、目隠しをされていたワヒドは、男の顔を見たことがなかった。

男は、本当に復讐の相手なのか?

確信が持てなくなったワヒドは、いったん復讐を中断し、同じ男に拷問された友人を訪ねることにするが・・・。

ジャファル・パナヒ監督インタビュー

――ワヒド、シヴァ、ハミドといった登場人物には特定のモデルがいるのでしょうか?

人物は架空だが、彼らの語るストーリーは実在の囚人が体験した事実に基づいている。登場人物や、その反応の多様性も事実だ。

復讐の念に駆られて凶暴になる者もいる。一歩引き、長い目で見て模索する者もいる。政治に強い関心を持つ者や、持つようになる者もいれば、無関心なのにたまたま捕まる者もいる。主人公ワヒドがそうだ。彼はただ賃金を要求しただけの労働者だった。

政権はこうした人々を区別しない。他の登場人物はそれぞれ、緩かったり、緊密だったりとさまざまな数多くの反体制派組織を象徴している。これらのグループは、塀の中でもたびたび衝突する。反体制という点では一致しているが、そこ以外は……。

――俳優陣はどういった面々なのでしょうか?

ワヒドを演じたワヒド・モバシェリは、アゼリー人 (パナヒの出身地であり、過去の作品の舞台ともなっているイラン北西部に居住する)だ。彼はタブリーズのローカルテレビ局で働いていて、『熊は、いない』では私に部屋を貸してくれる男性を演じていた。俳優の仕事をしていない時は、タクシードライバーをしている。

シヴァを演じたマルヤム・アフシャリは、女優ではない。空手の審判員だ。新婦を演じたハディス・パクバテンは、舞台女優だ。新郎を演じたマジッドは私の甥で、『人生タクシー』にも出演している。

ハミドを演じたモハマッド・アリ・エリヤスメールは大工だが、演劇を学んでいた。書店の老人サラルを演じたジョルジェス・ハシェムザデーは俳優であり監督だ。

唯一のプロの俳優はエグバルを演じたエブラヒム・アジジだが、彼は体制外の映画にのみ出演し、検閲を通った作品への参加を拒否している。

ジャファル・パナヒ監督プロフィール

1960年イラン生まれ。1995年、初長編映画『白い風船』で第48回カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞) 、第8回東京国際映画祭ヤングシネマ・東京ゴールド賞を受賞。2000年、イランの女性の権利に焦点を当てた『チャドルと生きる』第57回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞、2006年には『オフサイド・ガールズ』でベルリン国際映画祭最優秀監督賞(銀熊賞)を受賞するが、二作品ともにイランでは上映禁止となる。

2009年7月、大統領の再選をめぐる抗議活動で死亡した若きデモ参加者の追悼式に出席した後、初めて逮捕され、その後刑務所で86日間拘束された後に保釈。カンヌ国際映画祭の審査員に招かれたが、映画祭期間中、審査員席は象徴的に空席のままだった。世界の芸術家や映画制作者が支援した。同年6月、映画制作・メディア取材・国外退去の禁止を20年間命じられ、違反すれば6年の禁固刑が科されるとの判決を受ける。

こうした制限にもかかわらず、『これは映画ではない』(2011)を監督し、カンヌ国際映画祭でプレミア上映され絶賛。2012年、欧州議会よりサハロフ賞を授与され、『閉ざされたカーテン』は2013年ベルリン国際映画祭で銀熊賞(脚本賞)を受賞。2015年ベルリン国際映画祭で、2010年以来、自身で公の場で撮影した作品である『人生タクシー』を上映、金熊賞を受賞した。イラン北西部で撮影された『ある女優の不在』は、2018年カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞。2022年7月に再び逮捕され、ハンガーストライキを経て翌年2月3日に釈放。同年、ヴェネチア国際映画祭で『熊は、いない』が審査員特別賞を受賞した。

2025年、本作でカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞、世界三大映画祭を制した史上4人目の快挙となった。第98回アカデミー賞®にフランス代表として選出、脚本賞・国際長編映画賞にノミネートされた。映画のプロモーション中で、イラン国外にいるパナヒ監督は、12月イラン裁判所より懲役1年と2年間の渡航禁止、そして政治団体・社会団体への参加禁止を言い渡された。パナヒ監督の弁護士はSNSで、この判決に対して必要な法的措置を取り、控訴すると発表している。

アップリンク吉祥寺 アップリンク京都 ほか全国劇場にて公開 

公式サイト

監督・脚本:ジャファル・パナヒ 『白い風船』『チャドルと生きる』『人生タクシー』『熊は、いない』

出演:ワヒド・モバシェリ、マルヤム・アフシャリ、エブラヒム・アジジ、ハディス・パクバテン、マジッド・パナヒ、モハマッド・アリ・エリヤスメール

英題:IT WAS JUST AN ACCIDENT/2025年/フランス・イラン・ルクセンブルグ/ペルシャ語/103分/日本語字幕:大西公子/字幕監修:ショーレ・ゴルパリアン/協力:ユニフランス 

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