『幸せの、忘れもの。』静寂に佇む“隔たり”へ手を伸ばして―

『幸せの、忘れもの。』静寂に佇む“隔たり”へ手を伸ばして―

2026-04-27 18:53:00

聴こえない世界に生きる妻と、聴こえる世界に生きる夫。
ふたりは手話というかけがえのない“言葉”を通じて心を通わせていた。
それでも、異なる感覚世界の間に潜むわずかなすれ違いと違和感は、やがて葛藤や衝突へと姿を変え、たしかに築き上げた幸せを静かに壊していく——。

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聴こえる世界と聴こえない世界。
そこにはどれほどの“ちがい”があるのだろう。

本作では、何気ない日常と、そこに潜む小さなすれ違いが、じっくりと時間をかけて描かれている。

向かい合って食事をし、働き、となりで眠るアンヘラとエクトル。
互いを見つめ、手と口を動かしながら言葉を尽くすその姿には、ふたりが丁寧に築いてきた“幸せ”のかたちが滲んでいる。

だからこそ、ふたりのすれ違いが静かに積み重ねられていくほどに、時間をかけて紡がれてきた日常の尊さは、逆説的に輪郭を帯びていく。

 

「君が聴こえないのは僕のせいじゃない」

 

物語の後半、ふたりの衝突をきっかけに、作品は意図的に観客の“聴覚”を切り替えていく。

突然の静寂。
補聴器越しに押し寄せる、ざらついたノイズ。
片方を外したときの、音が不均衡に混ざり合う歪み。

くぐもった音が鼓膜を覆い、周囲から自分だけが切り離されたような感覚が全身を包み込む。

アンヘラの耳を通して世界とつながるその感覚は、“再現”というよりも、観客の知覚そのものに触れ、揺さぶる体験に近い。

聴者とろう者の持つ感覚世界にはきっと確かな差異があって、想像では埋められない何かが存在する――
認めがたい事実を鋭く突きつけられているようだった。

それでもエバ監督は、「私たちは思っているより、ずっと近い存在なんだと思います」と語る。

いま、打ち消すことのできない境界線の前に立ちながら、それでも歩み寄るということ。
静寂に耳を澄ませるその時間は、私たちが互いの世界へと手を伸ばすための、ささやかな贈り物なのかもしれない。

(鈴木栞)

イントロダクション

ベ ル リ ン 国 際 映 画 祭 2 冠 / ス ペ イ ン マ ラ ガ 映 画 祭 3 冠 / ゴ ヤ 賞 3 冠

第55回ベルリン国際映画祭にて観客賞とアート・シネマ賞を、第 28 回スペインマラガ映画祭では観客賞ほか計3部門、第40回ゴヤ賞でも最優秀新人監督賞ほか計3部門もの受賞を果たした本作。
新進気鋭監督の作品が、観る者の心を深く揺さぶり、静かなる熱狂を巻き起こした。

原型となったのは、18分の短編映画『Sorda』。各国の映画祭でノミネート、受賞をあわせ110を超える評価を獲得し、本作へと繋がった。
監督を務めるのはエバ・リベルタ。劇作家、社会学者の顔も持ち、そのキャリアは本作にも多大な影響を及ぼしている。
主演のミリアム・ガルロは、ろう者の俳優で監督の実の妹。監督が「きっと私たちは、一生をかけてこの映画を準備してきた」と語るように、本作には監督と妹自身の長年の実体験が色濃く反映され、研ぎ澄まされたリアリティが宿っている。

ろう者と聴者との僅かなすれ違い、それぞれが感じる異なる疎外感、いままでの映画作品には決して無かった繊細で絶妙な演出が冴えわたる。
ろう者と聴者が象徴的な主人公としながらも、母として、子として、夫婦として、そして生きる全ての人々が感じるふとした切なさ、些細な疎外感、そして必死にもがいた先の小さな幸せを見事に映し出す。
がんばってがんばって懸命に日々を過ごしている全ての人に贈る、本当の幸せへの道しるべ。

ストーリー

聴こえない世界に生きるアンヘラと、優しく寄り添う夫エクトル。
二人は手話というかけがえのない言葉で、心を通わす。アンヘラは陶芸工房で働き、優しい土の匂いと仲間たちにも見守られ、静かで平穏な日々を過ごしていた。
しかし、ある “幸せな出来事”を境いに、何かが少しずつ揺らぎ始める...。やがて再び“疎外の世界”に引き戻されるアンヘラ。
聴こえない世界とその外側で、時々見え隠れする“本当の幸せ”をアンヘラは、つかまえることができるのだろうか...。

エバ・リベルタ監督コメント

多様性は障害ではなく、豊かさだということです。

違いを恐れるのではなく、学ぶ機会として捉えてほしい。

そして実際に、この映画がきっかけで医療現場の改善が起きた例もあります。

最終的には、感動だけで終わらず、社会が動くことを願っています。

ろうの方には「自分の物語だ」と感じてもらえたら嬉しいですし、聞こえる方には新しい視点を持ってもらえたら。

私たちは思っているより、ずっと近い存在なんだと思います。

エバ・リベルタ監督プロフィール

マドリード・コンプルテンセ大学で社会学の学位も取得しているスペインの映画監督。
劇作家として、独立系の劇団やマドリード・コンプルテンセ大学、メキシコのケレタロ自治大学、メキシコの国立研究所や社会開発省などの機関に向けて、性暴力、人身売買、移民の性の権利などのテーマに関連する舞台作品も執筆・演出してきた経歴を持つ。

アップリンク吉祥寺 アップリンク京都 ほか全国劇場にて公開

公式サイト

監督:エバ・リベルタ

撮影:ジナ・フェレル・ガルシア

編集:マルタ・ベラスコ

音響:ウルコ・ガライ/サウンド・デザイン:エンリケ G. ベルメホ

出演:ミリアム・ガルロ、アルバーロ・セルバンテス、エレナ・イルレタ、ホアキン・ノタリオ

2025年/スペイン/スペイン語・スペイン手話(LSE)/99分/原題:Deaf/

提供:ニューセレクト

配給:スターキャットアルバトロス・フィルム

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