『落下音』わたしの耳元で震える、100年前の少女が聴いていた音。

『落下音』わたしの耳元で震える、100年前の少女が聴いていた音。

2026-04-02 08:00:00

低くうねる風。パチパチと音を立てる炎。

こちらを見つめる少女。だがそこには何もない。

合図もなく少女は死んで、大人になったが、あの時そばで鳴っていた音は、いまは身体の奥底へ沈んでいくみたいに聞こえてくる。

好奇とも呼べそうな欲望や羞恥や怯えが、100年経っても癒されることなく、彼女たちの身体を渡ってゆく。

それは、ひとりの少女の経験ではない。

1910年代のアルマ、40年代のエリカ、80年代のアンゲリカ、そして現代を生きるレンカ。

異なる時間を生きた4人の少女たちの記憶が、互いの影を踏み合うように、同じ北ドイツの農場に生きつづけている。

マーシャ・シリンスキ監督は、この映画の着想について、50年間空き家だった農場に滞在していた時のことを語っている。

すべてがそのまま残されたような家の、部屋から部屋へ移るたび、過去そのものの中を歩いているようだったという。「この場所には誰が、何が生きていたのだろう?」。

そしてある日、農場の中庭に立つ三人の女性の古い写真を見つける。スナップのようでもある写真の中で、彼女たちは、まっすぐこちらを見ていた。

『落下音』の少女たちもまた、何かを見つめている。

彼女たちの視線の先にあるものとは、べつの時代を生きたべつの少女なのかもしれない。1910年代のアルマのとなりに、40年代のエリカが立っていて、80年代のアンゲリカの背後に、現代のレンカがいるように。

無論4人は出会うこともなければ会話を交わすこともない。だが、ある少女が恐る恐る触れたものに、べつの少女もまたべつの仕方で触れてしまう。ある少女が耳を澄ませていた音が、100年後の少女にも届いている。

時間は蓄積され、断絶することはない。語られなかった出来事もまた、鳴りやむことなく、どこかの誰かの耳へ、小さな震えとなってふたたびあらわれる。

『落下音』が映しているのは、歴史の大きな物語ではなく、語られなかったからこそ残され、べつの誰かの身体を通して呼び覚まされる、記憶の物語なのだろう。

(小川のえ)

イントロダクション

第78回カンヌ国際映画祭、長編2作目にしてコンペティション部門入りを果たしたドイツ発の新鋭、マーシャ・シリンスキは本映画祭で鮮烈な驚きをもたらすと同時に、世界中の批評家を虜にした。

公式上映後には、テレンス・マリック、ジェーン・カンピオン、ミヒャエル・ハネケ、デヴィッド・リンチといった鬼才の名が引用されながらも、そのいずれにも回収されない独自の映画世界が高い評価を獲得。カンヌ初参加ながら審査員賞を堂々受賞、さらにはアカデミー賞のドイツ代表にも選出されるなど、今勢いを増して現代映画界の最前線へと躍り出ている。

本作は、4つの異なる時代に生きる4人の少女たちが、同じ土地で体験する不可解な出来事を描く、百年にわたる映像叙事詩。彼女たちが目撃したものとは、いったい何だったのか。

ストーリー

1910年代、アルマは同じ村で、自分と同じ名を持つ幼くして死んだ少女の気配に気づく。
1940年代、戦争の傷跡が残る中、エリカは片脚を失った叔父への抑えきれない欲望に気づき、自らの得体のしれない影に戸惑う。
1980年代、アンゲリカは常に肌にまとわりつく“何か”の視線に怯えていた。
そして現代、家族と共に移り住んだレンカは、自分の存在が消えてしまいそうな孤独感に蝕まれていく。

百年の時を経て響き合う彼女たちの<不安>が、この北ドイツの農場を静かに覆いつくしていく――

マーシャ・シリンスキ監督メッセージ

登場人物たちは、ただ自分の世界を生きています。
アルマは20世紀初頭のほとんど古代的とも言える時代に、エリカは第二次世界大戦の直接的で身体的な印象の残る1940年代に、アンゲリカは1980年代の東ドイツ(ドイツ民主共和国)に、レンカは壁崩壊から長い時を経た現在に生きている。
それぞれが自分たちの日常に従っていて、今日の 感覚では残酷にも奇妙にも聞こえる事柄を、非常に実務的で素朴な語り口で述べます。
たとえば、馬の蹄に蹄鉄を打つこと、女中が不妊化されること、祖母の遺体の口をハエ除けに縛ること。
同じ息継ぎの中で語られるのは、それが単に日常の一部だからです。
それでも少しずつ、彼女たちは自分たちを縛っている前提や思い込みを理解し、問い直そうとします。
全ての登場人物たちを一つにするのは、一度でいいから、何かに優越的にされることなく、この世界にただ存在したい、という切実な渇望です。これは私自身もよく知っている願いで、登場人物たちと共有している感覚でもあります。

マーシャ・シリンスキ監督プロフィール

ベルリン生まれの監督・脚本家。ハンブルク映画学校の脚本マスタークラス修了後、脚本家として活動を開始。その後、バーデン=ヴュルテンベルク映画大学で映画監督を学んだ。2年次に、中編『DIE KATZE(THE CAT)』で受賞。3年次に監督した長編『DIE TOCHTER(DARK BLUE GIRL)』は2017年のベルリン国際映画祭でプレミア上映され、GWFF新人賞のノミネートのほか、世界の40以上の映画祭で上映され、いくつかの国際的な賞も受賞した。2023年、共同脚本家ルイーズ・ピーターと執筆した『落下音』の脚本でトーマス・シュトリットマッター賞を受賞。『落下音』は2025年の第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出され、審査員賞を受賞。第98回アカデミー賞®ドイツ代表選出を果たす。

アップリンク吉祥寺 ほか全国劇場にて公開

公式サイト

監督・脚本:マーシャ・シリンスキ

出演:ハンナ・ヘクト、レア・ドリンダ、レーナ・ウルツェンドフスキー、レーニ・ガイゼラー

配給:NOROSHI ギャガ

英題:SOUND OF ALLING /2025年/ドイツ/カラー/ビスタ/5.1ch/155分/字幕翻訳:吉川美奈子/レーティング:PG-12

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