『決断するとき』クレア・キーガン原作。ささやかなことが、決断になるとき。

『決断するとき』クレア・キーガン原作。ささやかなことが、決断になるとき。

2026-03-16 08:00:00

時は1985年。アイルランドの片田舎で石炭商としてはたらくビルは、妻と5人の娘たちと慎ましくも安定した暮らしを送っている。

家に帰るとまず洗面台に向かい、すすで真っ黒になった手をブラシで擦り、汚れを落とす。すでに夕食を終えている娘たちは、妻が見守る中、にぎやかに宿題に励んでいる。

もうすぐクリスマス。外は冷え込み、うっすらと雪が積もりはじめている。

自分の幼少期を思えば、いまの家庭に過不足など何一つない。けれど、その穏やかさはどこか空虚さの上に成り立っているようで、幼い頃に経験したあの喪失のように、簡単に消えてしまうものなのではないか。

ある日ビルは配達先の修道院で、ひとりの少女の姿を目撃する。その出来事は、彼の内にある違和感を、拭いきれない問いへと変えていく。

そして、クリスマスの日。家へと帰る彼の両手に握られていたものとは─。

この物語の背景には、19世紀後半から20世紀後半にかけてアイルランドに実在した女性を収容する施設「マグダレン洗濯所」がある。

名目上は「更生施設」や「保護施設」とされ、その実態は長く社会の中で見て見ぬふりをされてきた。

カトリック系の修道会によって運営されていたその施設には、「道を踏み外した」と見なされた女性たち─家族から問題視された娘、未婚で妊娠した女性、孤児や貧困層の少女たち─が送り込まれ、外部との接触を断たれたまま、労働に従事させられていたという。

1990年代以降、社会が長く沈黙のうちに支えてきた施設のそうした実態が、生存者の証言や調査によって、深刻な人権侵害として明らかになっていった。

ビルが出会った震える少女。それは彼の前に、もはや見過ごすことのできない現実として存在したのだろう。

そうしたとき、人はそれをどう受け止め、その受け止め方をどう名づけるのか。気にかかっていた本作のタイトルと、原作になったクレア・キーガンの小説の題名の違いが、ここでふと重なってくる。

本作のタイトルは『決断するとき』。一方で、原作の題名は「ほんのささやかなこと」。

この二つの言葉の隔たりが、表しているものとは一体どんなことなのか。

見過ごした人たちにとっては、それはほんのささやかなこと。しかしビルのように、考え、悩み、行動に出た者にとって、それは決断と呼ばざるを得ない重さを帯びてくる。

一見対照的に見えるこの二つの言葉は、同じ現実に、わたしたち一人ひとりが与えた、べつの名づけなのかもしれない。

(小川のえ)

イントロダクション

第96回アカデミー賞®主演男優賞に輝いた『オッペンハイマー』(23)の後、 キリアン・マーフィーが次なる挑戦として選んだ意欲作。

『コット、はじまりの夏』(22)の原作者として知られ、現代アイルランドを代表する作家クレア・キーガンの世界的ベストセラー小説「ほんのささやかなこと」が原作。

マーフィーがこの小説にほれ込み、映画化を希望。『オッペンハイマー』撮影中にマット・デイモンに企画を持ち掛け、ベン・アフレックも加わり実現した。マーフィーは本作で初めてプロデューサーとしても名を連ね、キャスティングにも参加。

本作は、アイルランドに実在した“マグダレン洗濯所”の人権問題を背景に描かれる人間ドラマ。社会が長く黙認してきた現実を前に、「知ってしまった個人はどう振る舞うのか」を静かに問いかける。言葉を抑え、沈黙と内面の葛藤を徹底的に演じ切るマーフィーの姿が、深い余韻を残す一作。

2024年の第74回ベルリン国際映画祭において、シスター・メアリーを演じたエミリー・ワトソンが見事に銀熊賞(最優秀助演賞)を受賞した。

ストーリー

舞台は1985年、アイルランドの小さな町。

炭鉱商人として生計を立て、家族と慎ましく暮らすビル・ファーロングは、クリスマスが近づくある日、炭鉱を届けに訪れた地元の修道院で、目を背けたくなる現実を目撃する。

そこに身を置く少女から「ここから出してほしい」と懇願され、若い女性たちが行き場もなく苦しんでいる現実と向き合うことに。

見て見ぬふりをすることが賢明だと理解しながらも、良心の呵責に悩むビル。

そんな彼が、ついに下す決断とは――。

 

 

アップリンク吉祥寺 ほか全国劇場にて公開

公式サイト

(2024年/98分/アイルランド/カラー/1.85:1/5.1ch)

監督:ティム・ミーランツ

脚本:エンダ・ウォルシュ

原作:クレア・キーガン「ほんのささやかなこと」(鴻巣友季子 訳/早川書房 刊)

製作総指揮:ベン・アフレック、マイケル・ジョー、ケヴィン・ハローラン

製作:マット・デイモン、キリアン・マーフィー、アラン・モロニー、キャサリン・マギー、ドリュー・ビントン

出演:キリアン・マーフィー、アイリーン・ウォルシュ、ミシェル・フェアリー、クレア・ダン、ヘレン・ビーハン、エミリー・ワトソン

配給:アンプラグド

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