『役者になったスパイ』喜劇という装飾で壁の向こう側へ
1989年10月、ベルリンの壁崩壊前後のスイスを舞台として描かれる本作は、スイス政府が国民を監視し反体制派を炙り出そうと違法に調査・記録し問題となった実際の事件、通称「フィシュ・スキャンダル」を下地に物語が繰り広げられる。抑圧された人々の苦悩と他者への猜疑心が生み出す緊張感を、喜劇という装飾で彩っているのが本作の見どころだ。
ベルリンの壁崩壊当時17歳だったミヒャ・レビンスキー監督はその多感な時期をスイスで過ごしている。政府による監視体制と抑圧によって生活や職業など数えきれないほどの選択の自由が奪われる人々を眺めながら、17歳の青年が未来への不安を抱いたのは想像に難くない。
そんなレビンスキー監督が生み出したのは、笑いと愛を持って、青年時代の自身を掬い上げ、そして観客の未来をも照らさんとする映画だ。
本作の象徴的なシーンとして、レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』を彷彿とさせるカットがある。主人公のシュエラー(ヴァロ)が座ったのは右端の席。『最後の晩餐』ではシモンという人物の席だ。シモンはローマ支配に抵抗する政治的な人物であり、『最後の晩餐』においては「誰が裏切り者なのか」と議論しているとする説もある。スパイとして劇団に入り込んだ彼が反逆者を探す姿と重ねてみると楽しいだろう。では、果たして誰がユダなのか。
この映画の真髄はここからだ。演技の良し悪しや演者の怪我によって劇中劇の役が次々と入れ替えられていくのだ。シモンもユダも、疑うべきは誰なのかますますわからなくなっていく。そうした状況下で報道されるベルリンの壁の崩壊に、彼らは自分自身のあり方に疑いの眼差しを向けるようになる。
壁はもうなくなった!次に壊すべくはどの壁か━━。
本当の自分と偽りの自分を写す鏡、舞台と客席の間にある暗幕。それらの壁を壊し、彼らは本当の自分を曝け出す。眼前に広がるのは眩しいくらいのスポットライトで照らされた景色だ。
笑いあり、涙あり、なんて胡散臭い謳い文句を疑う人にこそ、本作をまるでユダを探すように観てみてほしい。
スクリーンに映るのは、あなたにとっての壁と、壁の向こう側に違いない。
(編集部:F)
イントロダクション
監督を務めたのは、デビュー作『Der Freund』(2008)でスイス映画賞作品賞を受賞し、映画『Die Standesbeamtin』(2009)の大ヒット以降、ロマンス映画の名監督として知られるミヒャ・レビンスキー。日本でも公開された衝撃作『まともな男』(2015)では、ヒューマンサスペンスという新境地を開拓した。そんな彼が本作で描き出すのは、中立を掲げながらも強い反共意識に覆われた 1980 年代のスイスを舞台に、市民が監視対象となった異例のスキャンダル。冷戦下のひりついた空気、ベルリンの壁崩壊の衝撃や人々に巣食う疑心暗鬼の心にユーモアを加えることで見事なバランスの作品に仕上げた。シェイクスピア『十二夜』の稽古と現実が重なり合う中で、任務と恋に揺れる男を主人公に据えたポリティカル・ロマンスコメディが日本に上陸した。
ストーリー
1989年、ソ連の共産主義に対する恐れが蔓延する冷戦下のスイス。警察官であるヴィクトール・シュエラーは、反体制派の情報収集と監視のため、デモ活動を展開していたシャウシュピールハウス劇場への潜入捜査を命じられる。しかし監視対象であるはずの主演女優オディール・ヨーラと恋に落ち、劇団員とも交流を深めるうちに、自らの任務にも疑問を抱くようになる...。従うべきは任務なのか、心なのか̶̶ 。
ミヒャ・レビンスキー監督インタビュー
――本作で描かれているのは、30年以上前に起こったスキャンダルです。この題材を選んだ理由を教えていただけますか。「フィシュ・スキャンダル」について、スイス国民は、この事件をどのように捉えられているのでしょうか。
スイス警察が市民を監視していたという事実が発覚したこのスキャンダルは、スイス国民にとって歴史的に極めて重大な出来事でした。当時のことはよく覚えています。当時、私はまだ 10 代でした。そんな私にですら、フィシュと呼ばれる個人情報を記録したカードがあったのです。私が監視対象となったきっかけは、たわいのないことです。子どもの頃、学校の課題でシベリア鉄道について発表しようと思い、情報を集めるためソ連大使館に電話をしました。たったそれだけのことで、彼らの監視網に引っかかってしまったのです。
――演劇界を舞台にした理由は何だったのでしょうか。また数ある作品の中でもシェイクスピアの『十二夜』を劇中劇に選んだ理由を教えてください。
劇場の閉ざされた空間というのが好きなんです。劇場は外の世界の現実を映し出す小さな世界です。互いを監視し合い、誰もが自分は革命家なのだと信じている。しかし、結局はちっぽけな自惚れ屋でしかない。『十二夜』はその鏡の中の鏡のようなものです。登場人物たちは誰かのふりをしている。『役者になったスパイ』の中と同じようにね。
――スイス国内での本作の反応はいかがでしたか?
極めて好評でした。ですが、見てくれた人の中には、今でもあのスキャンダルに心を痛めている人もいました。彼らの傷はまだ癒えていないのです。あの出来事のせいで、職を失った人もいれば、キャリアを築けなかった人もいます。「あの悲劇をコメディとして描くことは正しかったのか」と問われたこともありました。
――日本のみなさんにメッセージをお願いします。
以前、私の作品が公開された時に東京に行く機会に恵まれました。あの時の経験は忘れることのできない、貴重な体験になりました。いつか子どもやフィアンセと一緒に日本を再来したいです。それまでは、私の作品を日本に送り続けます。みなさんが『役者になったスパイ』を楽しんでくれますように!

ミヒャ・レビンスキー監督プロフィール
1972 年ドイツ生まれ、スイス育ち。2000 年から脚本家として、2005 年から監督として映画業界に携わる。初の長編作品『Der Freund』(2008) ではスイス映画賞作品賞を受賞、同年のアカデミー国際長編映画賞のスイス代表作品に選出された。長編2作目の『Die Standesbeamtin』(2009) はスイスとドイツで興行収入およそ 1.5 億円の大ヒットを収めた。日本でも公開された『まともな男』(2015)ではスイス映画賞の脚本賞を受賞。2015 年のチューリヒ映画祭でプレミア上映が行われ、その後、数多くの映画祭に選出された。
最新作『役者になったスパイ』(2020)では、スイス史上最大の政治スキャンダルともいわれる「フィシュ・スキャンダル」を背景に、劇団に潜入した警察官と舞台女優の恋を描き、第 55 回ソロトゥルン映画祭のオープニング作品として上映された。現在はチューリヒ在住で、映画制作のほか、小説の執筆にも取り組んでいる。







アップリンク吉祥寺、アップリンク京都ほか全国劇場にて1月23日(金)公開
※アップリンク京都は1月30日(金)より公開
監督:ミヒャ・レビンスキー
出演:フィリップ・グラバー、ミリアム・シュタイン、マイク・ミュラー、ミヒャエル・マールテンス 他
原題:Moskau Einfach!|スイス|2020 年|102 分|カラー|スイスドイツ語・ドイツ語|フラット|5.1ch|G
日本語字幕:常磐彩|字幕監修:小山千早|後援:在日スイス大使館|配給・宣伝:カルチュアルライフ
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