『アイム・スティル・ヒア』ブラジルの軍政下を生きた家族の物語。「私はまだここにいる」その声が聞こえるまでは、ページはめくられない。

『アイム・スティル・ヒア』ブラジルの軍政下を生きた家族の物語。「私はまだここにいる」その声が聞こえるまでは、ページはめくられない。

2025-08-06 08:00:00

駆けて行けば30秒で青々としたビーチの広がる、ブラジル・リオデジャネイロの一軒家で暮らすパイヴァ一家。朗らかで頼りがいのある父・ルーベンスと、凛として賢明な母・エウニセ。そしてヴェロカ、エリアナ、ナル、マルセロ、バビウの5人の子どもたち。にぎやかで愛情深く、ユーモアの光にあふれた家庭。

ときは1970年代、軍事独裁政権下のブラジル。ニュース番組やラジオでは、大使の誘拐事件や軍政の動きが日々報じられていた。パイヴァ家の明るい暮らしと地続きとは思えない重苦しい空気が、社会全体を覆っていた。そしてその闇は、ついにパイヴァ家の玄関、リビング、そして寝室まで、容赦なく入り込み、父親のルーベンスは軍に連行されてしまう。

本作『アイム・スティル・ヒア』のウォルター・サレス監督は、思春期をパイヴァ家の家で過ごしたことがあるという。監督はインタビューで一家についてこう語る。「戸も窓も開け放たれ、世代や立場を 越えた人々が自由に集うその空間は、独裁下のブラジルでは極めて特異で象徴的なものでした。あの家そのものが、”こんな国にしたい”という理想の縮図だったのです」。

物語の基となったのは、パイヴァ家の息子でジャーナリストのマルセロ・ルーベンス・パイヴァの回想録『Ainda estou aqui(私はまだここにいる)』(2015年)。実際に起きた元下院議員ルーベンス・パイヴァの拉致・殺害事件について、残された6人の家族の歩みを、ルーベンスの妻でありマルセルの母・エウニセの視点から描かれている。

ルーベンスが連行されたあと、エウニセ自身も拷問を経験しながら、なおも毅然と、子どもたちとの日々の暮らしを守り抜く。まるでブラジルの陽差しが、彼女の威厳を照らし出すかのように。彼女が求めたのは、”夫は死んだ”というただひとつの事実だった。死を認めたい。けれどその死さえ、与えられない。

エウニセを演じたのは、ブラジルの名優フェルナンダ・トーレス。サレス監督は彼女のことを「共にこの作品を形作った、もう一人の作家」だと話している。そして老年期のエウニセを演じたのは、トーレスの実母でブラジル映画界の伝説的存在、 フェルナンダ・モンテネグロ。母と娘、二人の演者を通して、物語と現実の時間の流れが二重になり、131分の中に連綿とつづく時の厚みが付与される。

2024年11月。映画が公開される直前、元大統領ジャイル・ボルソナロによる軍事クーデター計画の存在が報じられた。「ページはめくられていない」。マルセロが言った。「私はまだここにいる」。ルーベンスの、〈デサパレシード(行方不明者)〉たちの声が聞こえる。

(小川のえ)

イントロダクション

名匠ウォルター・サレスが、長編映画として16年ぶりに祖国ブラジルにカメラを向けた本作は、軍事独裁政権下で消息を絶ったルーベンス・パイヴァと、夫の行方を追い続けた妻エウニセの実話に基づいている。

サレス自身、幼少期にパイヴァ家と親交を持ち、この記憶を、喪失と沈黙をめぐる私的な問いとして丁寧に掘り起こした。自由を奪われ、言葉を封じられても、彼女は声をあげることをやめなかった。サレスは、理不尽な時代に抗い続けたひとりの女性の姿を、美しくも力強い映像で永遠の記憶として刻みつける。

本作は第81回ヴェネツィア国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞。第82回ゴールデングローブ賞ではブラジル人女優として初めて主演女優賞に輝いた。第97回アカデミー賞では、ブラジル映画史上初となる作品賞ノミネートを含む3部門に名を連ね、国際長編映画賞を受賞。やがてその静かな声は国境と歳月を超え、世界の記憶へと刻まれる。

ストーリー

1970年代、軍事独裁政権が支配するブラジル。

元国会議員ルーベンス・パイヴァとその妻エウニセは、5人の子どもたちと共にリオデジャネイロで穏やかな暮らしを送っていた。しかしスイス大使誘拐事件を機に空気は一変、軍の抑圧は市民へと雪崩のように押し寄せる。

ある日、ルーベンスは軍に連行され、そのまま消息を絶つ。突然、夫を奪われたエウニセは、必死にその行方を追い続けるが、やがて彼女自身も軍に拘束され、過酷な尋問を受けることとなる。数日後に釈放されたものの、夫の消息は一切知らされなかった。

沈黙と闘志の狭間で、それでも彼女は夫の名を呼び続けた――。

自由を奪われ、絶望の淵に立たされながらも、エウニセの声はやがて、時代を揺るがす静かな力へと変わっていく。

ウォルター・サレス監督インタビュー

©Sofia Paciullo

―― 物語をエウニセの視点で描いた理由は? また、彼女は現代ブラジルにおいてどのような存在だと考えますか?

マルセロ・パイヴァの著書は、自分自身の視点から家族の記憶を辿るものですが、その中心には常に母エウニセの姿がありました。

彼女は運命に抗い、家父長制の枠組みを超えて、自らを再創造した存在です。その静かでありながら揺るぎない抵抗の姿に、私は強く惹かれました。

壊れた家族の記憶をたどる営みと、国家=ブラジルの記憶を再構築する作業が重なり合うこと──それこそが、この映画を撮ろうと決意した根本的な動機です。30年に及ぶパイヴァ家の探求は、そのままブラジルの再民主化の歩みとも重なっています。

―― 現在のブラジルにとって、この映画はどのような意味を持つのでしょうか?

私たちの世代は、21年に及んだ軍政の終焉を経て映画制作を志しました。本来であれば、抑圧の時代に語れなかった多くの物語と正面から向き合うべきでしたが、90年代初頭のコロール政権の危機によって、目の前の現実を記録せざるを得ない状況に置かれました。そうした流れの中から、『Terra Estrangeira』や『セントラル・ステーション』といった作品が生まれていきます。

しかし近年、極右の台頭により、軍政期の記憶がいかに脆く、消されやすいものであるかが改めて露わになりました。過去を照らし出し、同じ過ちを繰り返さないための作品が、今こそ必要だと痛感しています。

本作では、国家が家族の中にまで介入し、生死を左右し、遺体すら奪うという現実を描いています。2021年には、かつての拷問者に勲章を授ける大統領が現 れるまでになりました。

この映画はボルソナロ政権以前に構想されたものですが、結果的に過去だけでなく、現代における新たな権威主義の危険性をも照射する作品となりました。それが、私たちが今いる現実です。

ウォルター・サレス監督プロフィール

1956年、リオデジャネイロ生まれ。外交官で銀行家の父を持ち、幼少期をフランスやアメリカで過ごす。南カリフォルニア大学映画学部で学び、ドキュメンタリー制作を経て劇映画へと転向。1990年代以降、ブラジル映画復興運動「レトマーダ」の中心的存在として活躍し、国際的な評価を確立した。

1998年に監督した『セントラル・ステーション』は、ベルリン国際映画祭で金熊賞と主演女優賞を受賞。アカデミー賞®外国語映画賞・主演女優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞および英国アカデミー賞(BAFTA)非英語映画賞も受賞するなど世 界的な成功を収めた。続く『モーターサイクル・ダイアリーズ』(04)は、若き日のチェ・ゲバラの南米縦断を描き、カンヌ国際映画祭でエキュメニカル審査員賞とフランソワ・シャレ賞を受賞。アカデミー賞®歌曲賞受賞・脚色賞ノミネートを果たす。ダニエラ・トーマスと共同監督した『リーニャ・ヂ・パッシ』(08)では、カンヌ国際映画祭主演女優賞を獲得。さらに2012年には、ジャック・ケルアックの小説を映画化した『オン・ザ・ロード』を発表し、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品された。

近年は、若手映画作家の育成や映画保存活動にも尽力しており、2020年にはその功績が認められ、国際映画アーカイブ連盟(FIAF)賞を受賞。映画という表現の未来と記憶の両方に光を当て続ける存在として、今なお世界の注目を集めている。

アップリンク吉祥寺 アップリンク京都 ほか全国劇場にて公開

公式サイト

監督:ウォルター・サレス

脚本:ムリロ・ハウザー、エイトール・ロレガ

原作:マルセロ・ルーベンス・パイヴァ 音楽:ウォーレン・エリス 撮影:アドリアン・テイジド 編集:アフォンソ・ゴンサウヴェス 出演:フェルナンダ・トーレス、セルトン・メロ、フェルナンダ・モンテネグロ

2024 年|ブラジル・フランス|ポルトガル語|137分|カラー|ビスタ|5.1ch 原題:AINDA ESTOU AQUI|英題:I'M STILL HERE|字幕翻訳:原田りえ|映倫:PG12 提供:クロックワークス、プルーク 配給:クロックワークス

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