『泡沫 Utakata』うつ病を乗り越えたラコステ監督の再生の旅

『泡沫 Utakata』うつ病を乗り越えたラコステ監督の再生の旅

2025-06-24 19:44:00

『泡沫 Utakata』は、アドリアン・ラコステ監督の長編デビュー作にして、モノクロームの静謐な美しさと記憶の狭間を漂う映像詩だ。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2023の国内コンペティションに選出され、東京国際映画祭でジェムストーン賞を受賞した本作は、日本在住のフランス人監督が日本の風土に寄り添い、現代社会の孤独と再生を繊細に描き出す。観客を沈黙の奥に息づく物語へと誘う。

物語の中心は、建築科の学生・セイジロウ。有名建築家の家系に生まれ、物質的には恵まれながらも「自分という存在の輪郭」を見失った青年だ。メキシコ留学から帰国し、家族の集まりに身を置くが、封じ込められた過去と将来への迷いに心は揺れる。沈黙を強いようとする家族の中で、彼はロシア人写真家のラナと出会い、日本各地の廃墟を巡る旅に出る。朽ちゆく空間で育まれる言葉を超えた共鳴は、セイジロウを内なる記憶へと導き、沈黙の先にある新たな風景へと踏み出させる。

ラコステ監督は、この旅を「語られぬ感情の残響」と呼び、セイジロウの葛藤を詩的に表現する。ラナの写真が捉える廃墟の謎めいた美や、意識の深層に触れるような幻想的なシーンは、時間の停滞と再生への希求を象徴し、モノクロの映像が声なき感情を鮮烈に映し出す。

本作は、ラコステ監督の個人的な旅路に根ざす。フランスで大学卒業後、うつ病を患い、「何も手につかず、自分が誰なのかわからなくなった」と振り返る監督は、2012年の日本移住を機に新たな視点を見出した。この苦しみは、セイジロウのアイデンティティ喪失や「色のない世界」からの脱却に投影され、モノクロ映像はうつ病時の心理を静かに伝える。

「精神的な問題を抱える人々の日常に光を当てる」と語る監督は、感情の麻痺や現実逃避を、崩壊と浮遊のビジョンによって描き出し、観客に深い共感を呼び起こす。「廃墟には『誰かがいた』という痕跡と『今は誰もいない』という空白が同居する。その対比の中に、沈黙と記憶を浮かび上がらせたかった」と監督は語る。アルベール・カミュの“不条理”に着想を得た本作は、「Not everything needs to be explained.」――全てを言葉で説明するのではなく、見えない感情に宿る真実を尊重する。

『泡沫』は、うつ病を乗り越えたラコステ監督の魂と、セイジロウの再生の旅が重なる一作だ。「ラナはセイジロウの感情を解放する触媒」と監督が語るように、彼女の異邦人の視点は観客にも新たな気づきをもたらす。映画館の暗闇で、モノクロの廃墟と幻想に身を委ね、沈黙の奥に息づく記憶の鼓動を感じてほしい。

 

イントロダクション

沈黙の中に、記憶が息づく。
『泡沫(Utakata)』は、沈黙と記憶、そして再生をめぐる詩的な映像詩である。
ひとりの青年の旅路を通して、語られなかった過去と対峙し、やがて「自分という風景」に静かに還っていく物語が、廃墟という空間に漂う“時間の断片”とともに描き出される。
日本の静謐な風土に寄り添いながら、アルベール・カミュ『シシュポスの神話』に通じる“不条理”の感覚を基盤に、視覚的にも精神的にも「語りの余白」を重視した作品。
時間が剥離した空間の中で浮かび上がるのは、傷ついた者たちの声にならない感情──
この映画は、音のない風景の奥で、確かに「誰かの記憶が息をしている」ことを伝える。

 

ストーリー

建築科の学生・セイジロウは、祖父の80歳の誕生日を祝うために帰国する。
しかし家族が封じ込めてきた過去と、自身の将来への迷いのなかで、彼の心は静かに揺れていた。
家族の中で沈黙を強いられるセイジロウは、やがて廃墟を撮影する写真家・ラナと出会う。
ふたりは忘れられた風景を辿る旅に出る。
朽ちていく空間の中で、言葉を超えた絆が育まれていく。
旅の果て、セイジロウは自身の内面に眠っていた記憶と向き合い、沈黙の先にある、まだ見ぬ風景へと一歩を踏み出す──。

 

アドリアン・ラコステ監督インタビュー

Q. セイジロウというキャラクターは、あなた自身の投影ですか?
── 間違いなくそうです。彼には、私自身が抱えていた「語ることへの恐れ」や「語れなかったことへの後悔」が反映されています。

Q. 廃墟を舞台に選んだ理由は?
── 廃墟には「誰かがかつていた」という痕跡と、「今は誰もいない」という空白が同居しています。
その対比の中に、沈黙と記憶を浮かび上がらせたかったのです。

Q. 本作を通して伝えたかったことは?
── “Not everything needs to be explained.”
すべてを言葉で説明することが正解ではない。見えないもののなかにこそ、記憶や感情が宿っていると信じています。

 

監督プロフィール

ADRIEN LACOSTE|アドリアン・ラコステ

2012年に日本に移住し、東京を拠点に劇映画、ドキュメンタリー、ミュージックビデオなどを制作。
映像詩的な実験作を経て、短編『未来は明るい』(2017/SSFF)で注目を集める。
本作『泡沫』が初の長編映画。

アップリンク吉祥寺にて6月27日(金)公開

公式サイト

監督・脚本:アドリアン・ラコステ
出演:中崎敏、アリサ・ワイルド、鎌滝恵利、遊屋慎太郎、赤間麻里子、野村宏伸、津嘉山正種 ほか
上映時間:124分|PG12
仕様:モノクローム/日本語・英語(バイリンガル構成)/シネマスコープ/5.1ch
ジャンル:ドラマ/映像詩
公開日:2025年6月27日(金)アップリンク吉祥寺にて劇場公開(2週間限定)以降全国順次公開
製作・配給:A SUR(エーシュール)

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