『ラ・コシーナ/厨房』 ”人種のるつぼ” は、サラダボウルではなく、厨房の中にある―。
レストランものと言えば、記憶に新しい『ボイリングポイント/沸騰』(2022年、フィリップ・バランティーニ監督)、それからピーター・グリーナウェイ監督の『コックと泥棒、その妻と愛人』(1990年)は、筆者にとって忘れることのできない作品だ。
そして、本作『ラ・コシーナ/厨房』も、素晴らしいという意味で、できることなら目を背けたいと思わされる作品だった。
先の二作は高級レストランを舞台に、人間模様の亀裂や歪みを描いた。『ボイリングポイント/沸騰』は全編ワンショットと言う驚くべき手法で、『コックと泥棒、その妻と愛人』は料理と衣装の毒々しいほど艶かしい色彩で、私たちを圧倒した。
一方、『ラ・コシーナ/厨房』はモノクロで、一つの世界といくつもの矛盾を描ききる。
その”厨房”は、ブロードウェイやタイムズスクエアが位置する49丁目駅の、観光客向けの大型レストラン「The Grill(ザ・グリル)」にある。
知人のつてでメキシコから19歳の少女が「ザ・グリル」にやってくる。英語も全く話せず法定年齢にも満たないが、その日から厨房でアルバイトすることになる。アメリカ人オーナーが経営する「ザ・グリル」には、少女を採用した二世米国人、少女と同じ日にウェイトレスとして働き始めたドミニカ人女性、料理人にはメキシコ人、コロンビア人、ウクライナ人など様々。一人アメリカ人の料理人は、英語以外の言語が飛び交う厨房に苛立っている。メキシコ人の料理人はドミニカ人女性をひどく嫌っていて、アメリカ人の料理人とも昨日殴り合いの喧嘩をしたばかり。恋愛関係にあるウェイトレスが、アメリカ人の料理人の元カノであることも、彼らが仲の悪い理由の一つ…。
今挙げたのは、「ザ・グリル」の人間関係のほんの一部にすぎない。”人種のるつぼ”は、サラダボウルという比喩の中にではなく、厨房の中に実際にあるのだ。
原作は、約70年前に書かれた労働者階級出身でナイトの称号を持つイギリスの劇作家、アーノルド・ウェスカーの戯曲「調理場」。1961年に『野生のエルザ』で知られるジェームズ・ヒル監督により『The Kitchen(原題)』として映画化。1994年には当時ロイヤル・コート劇場のディレクターだったスティーヴン・ダルドリー監督(『リトル・ダンサー』)の演出で再演され、日本でも2005年に舞台演出家の蜷川幸雄が「キッチン KITCHEN」として上演した。
本作はそんな言わずと知れた戯曲を、アロンソ・ルイスパラシオス監督が自由に映画化したものだ。劇中では随所に、ポエトリー・リーディングのような場面があり、詩のようなセリフが現れる。母国語から出た場所で生きる者にとってはなおさら、詩はなくてはならないものだということだろうか。厨房の喧騒や、厨房で起こる出来事の痛烈さとは対照的に、ケネス・ブラナーやアンソニー・ホプキンスを輩出したロンドンの王立演劇学校で学んだ監督の知性が、じんわりと伝わってくる。
今日も世界のあちこちの"厨房"では、怒涛の、動き続けるか過ぎ去るのを待つかしかできないような一日が、とりあえずの終わりを迎えるのだろう。
(小川のえ)
イントロダクション
2024年に開催された第74回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品され、初上映された本作『ラ・コシーナ/厨房』。
鑑賞後の評論家たちは作品に込められた力強い表現を絶賛し、監督のアロンソ・ルイスパラシオスをオスカー監督ギレルモ・デル・ トロ、アルフォンソ・キュアロン、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥに並ぶ才能と評価した。
原作は、労働者階級出身でナイトの称号を持つイギリスの劇作家アーノルド・ウェスカー(2016年没)が 25 歳の時に初めて書いた戯曲「調理場」(1959年初演)。日本でも 2005年に舞台演出家の蜷川幸雄が「キッチン KITCHEN」として上演し、その後も下北沢の小劇場で舞台化されるなど舞台関係者の間では知られた戯曲で、映画化は本作で2度目となる。
本作の観客が目撃するのは、NYというまぶしく先進的な街と、アメリカン・ドリームを求めて滞在する不法な移⺠たちの対比である。アメリカ娘に恋するメキシコ人、厨房で働く様々な国からの移⺠たちの事情、自国の言葉で発せられる猥談...。
不法労働移⺠の働くブラックな職場は、まるで文化の違い、政治の違いと資本主義が作り上げた格差ループから抜けられない国々が付かず離れずひしめき合う、この世界そのものだ。まさに2度目のトランプ政権が誕生した今、この映画の示す混沌はすぐそこで起きている現実であることを突きつけられるのである。
本作はベルリン国際映画祭のほか世界中の映画祭に出品され、現在12受賞14ノミネートを獲得。加えてIndiewireが発表した[映画人の選ぶ2024年フェイバリット・フィルム]では『サスペリア』『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督が15本のうちの一本に挙げているほか、主人公の料理人を演じたラウル・ブリオネスは、[The Hollywood Reporterが選ぶ2024年ベスト パフォーマンス俳優]15名の一人に選ばれている。
ストーリー
ニューヨークの大型レストラン「ザ・グリル」の厨房は、いつも目の回るような忙しさ。
ある朝、店のスタッフ全員に売上金盗難の疑いがかけられる。
加えて次々に新しいトラブルが勃発し、料理人やウェイトレスたちのストレスはピークに。
カオスと化した厨房での一日は、無事に終わるのだろうか…
アロンソ・ルイスパラシオス監督メッセージ
この作品では境界線が大きな役割を果たしている。物理的な境界、精神的な境界、そして社会的な境界。同じ生活 空間で過ごしながらも分断されている社会の奥底に潜むものは何か。それを探るのに厨房の縦の構造はうってつけだ。この観点から見るとザ・グリルはフロアと厨房、管理する側と現場で働く側、アメリカ人と外国人といった分断を抱えた空間であり、現代社会の完璧なメタファーだ。料理人が出来上がった料理を置き、ウェイトレスがフロアへ運ぶ間の線は、こうした境界を思い出させる象徴だ。それはペドロとジュリアを隔てる線でもある。
ペドロとジュリアのかなわぬ恋は、滅茶苦茶なロマンティックコメディーのようだ。せわしない注文の合間に冷蔵室や廊下で笑い、いちゃつき、ケンカし、愛し合う2人のやり取りを見て、私たちはこの風変わりなカップルを応援せずにいられない。ある意味この2人はメキシコと米国の関係を反映している。切り離せない関係でありながら、永遠に一緒にはなれない関係。かつてメキシコの文人・法律家のフスト・シエラは「哀れなメキシコ...。神からは遥か遠く、米国には限りなく近い」と言った。
(一部抜粋)
アロンソ・ルイスパラシオス監督プロフィール
1978年、メキシコシティ生まれ。ロンドンのRADA(王立演劇学校)で学ぶ。最初の長編作品『グエロス』(14)がベルリン国際映画祭の初監督作品賞など世界各地で40以上の賞を受賞。2018年、長編第2作『Museo(原題)』ではベルリン国際映画祭の銀熊賞(脚本賞)、アテネ国際映画祭とモレリア国際映画祭の監督賞を受賞した。長編第3作『コップ・ムービー』はベルリン国際映画祭銀熊賞(編集部門)、アリエル賞の最優秀長編ドキュメンタリー賞に輝いた。本作『ラ・コシーナ/厨房』は初の英語作品として2024年のベルリン国際映画祭コンペティション部門・トライベッカ国際映画祭など20の映画祭・映画賞に出品・ノミネートされ、12受賞を獲得している。ほか2018「ナルコス メキシコ編」ep.07,08(Netflix)、2025「キャシアン・アンドー」2つのep(Disney+)など世界配信ドラマの監督としても活躍中。
アップリンク京都 ほか全国劇場にて公開
監督・脚本:アロンソ・ルイスパラシオス
原作:アーノルド・ウェスカー「調理場」
出演:ラウル・ブリオネス、ルーニー・マーラ
2024年|139分|モノクロ|スタンダード(一部ビスタ)|アメリカ・メキシコ|英語、スペイン語|5.1ch|G|原題:La Cocina |字幕翻訳:橋本裕充
配給:SUNDAE
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