『あの歌を憶えている』記憶の影は、我々に付きまとうのか、それとも我々を見守るのだろうか
ミシェル・フランコ監督と言えば、いじめ問題と母との死別に葛藤する父娘の心情を描写した『父の秘密』(2012)でカンヌ国際映画祭「ある視点」部門のグランプリを獲得し注目を集め、その後も、終末期の患者とその看護師を通して死について描いた『或る終焉』や、緊張感に満ちた母娘の関係から母性とは何かということを突きつけた『母という名の女』、そして経済格差が引き起こす社会秩序の崩壊を、目を覆いたくなるほどのリアリティで映し出した『ニューオーダー』など、現実を暴き、人間の本性とも呼べるようなものを作品で表現し、見せつけてきた。
そんなフランコ監督は本作で、お互いの記憶を埋めるべくして出会ったかのような男女二人の、静かなラブストーリーを完成させた。
しかしやはり慎重になるべきだ。この物語に描かれているは私たちの知っている静けさなのか。私たちが愛だと思ってきた愛なのか。
主人公はシルヴィアとソール。シルヴィアは介護施設で働くシングルマザー。長年禁酒会に通い、アルコール依存症を克服したばかり。けれど依存症に陥った原因と考えられる過去の出来事からは全く解放されていない。一方のソールは妻を失くし、それがきっかけなのかは定かではないが若年性認知症と診断された。弟とその娘に保護されるように暮らしている。
ソールのお気に入りの曲として、イギリスのロック・バンド、プロコル・ハルムの『青い影』が、二人につきまとうように、もしくは見守るようにして、作中何度も、でもさりげなく流れる。
過去の記憶に関する苦悩を抱えている、という共通点をもつ二人は、ごく普通の男女と同じように惹かれ合い、精神的にも肉体的にも求め合う。障害はあれど、お互いの欠点を補い合い、支え合っていけるように見える。ストーリーとしてはそうなのだが、劇中、シルヴィアはソールを、ソールはシルヴィアを、ほんとうに信じていいのだろうかと、私には内心ひやひやしてしまう短い場面が実は多々あった。
前述の『青い影』だが、英題の”A Whiter Shade Of Pale”は歌詞の一部から来ており、「彼女の顔はみるみる青白くなっていった」という意味なのだが、なぜかというとそれは浮気がばれそうになるから、といった文脈である。
けれど、それは深読みのしすぎかも知れない、と反論したくなる自分も確かにいる。ひとりベッドに臥せて、枕元に置いたスマートフォンから『青い影』のイントロだけを、繰り返し聴くソールの姿を見たではないか、と。
このようなアンバランスさ、ミステリアスさを秘めているところが、ラブストーリーであるとはいえ、やはりミシェル・フランコ作品ならではなのではないかと思う。
撮影は『或る終焉』、『母という名の女』、『ニューオーダー』でフランコ監督と協働し、レオス・カラックス監督の『ホーリー・モーターズ』も手がけたイヴ・カープ氏が、音響は、同じくカラックス監督の『アネット』やアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『MEMORIA メモリア』を担当したハビエル・ウンピエレス氏が務め、このストーリーが、そして登場人物がもつ繊細さを壊すでも引き立てるでもなく寄り添い、作品の完成度を上げている(MO)
イントロダクション
忘れたい記憶を抱え続けている女と、忘れたくない記憶を失っていってしまう男。NY・ブルックリンを舞台に、記憶に翻弄される不器用なふたりが出会い、新たな人生と希望を見つけていく、観る者の心を温かく抱擁する愛のヒューマンドラマ。
何度も流れる楽曲は「青い影」。イギリスのロック・バンド、プロコル・ハルムによる、全世界で1000万枚以上を売り上げた大ヒット曲だ。1967年のリリースから半世紀を経た今も色褪せないエモーショナルな旋律が、登場人物たちの心情を際立たせる。
監督は、『或る終焉』(15)でカンヌ国際映画祭脚本賞、『ニューオーダー』(20)でヴェネツィア国際映画祭審査員大賞を受賞するなど世界で高く評価され、人間の内面を真正面から、時に観る者を不安に陥れるほどの描写で描いてきたメキシコの俊英ミシェル・フランコ。
新境地とも言える本作では真実を愛で包み込む奥深い視線で、今この時代に希望に輝くエンディングを届ける。
ストーリー
ソーシャルワーカーとして働き、13歳の娘とNYで暮らすシルヴィア。若年性認知症による記憶障害を抱えるソール。それまで接点もなかったそんなふたりが、高校の同窓会で出会う。
家族に頼まれ、ソールの面倒を見るようになるシルヴィアだったが、穏やかで優しい人柄と、抗えない運命を与えられた哀しみに触れる中で、彼に惹かれていく。
だが、彼女もまた過去の傷を秘めていた──。
ミシェル・フランコ監督メッセージ
私は、何らかの理由で社会の隙間に落ちてしまう人々についての映画を作りたかったのです。
期待に応えられない、あるいは応えたくないという彼らの気持ちは、多くの場合、彼らの記憶の中にしか存在しない出来事に根ざしています。
しかし時には彼らの疎外そのものが、過去の影からの脱出、現在の生活を築くチャンスを与えてくれるのです。
記憶とは、本当にその影から逃れられるかどうかなのです。
ミシェル・フランコ監督プロフィール
1979年メキシコシティ生まれ。2012年『父の秘密』でカンヌ国際映画祭「ある視点」部門でグランプリを獲得後、2015年には『或る終焉』で同映画祭のコンペティション部門の最優秀脚本賞を受賞、さらに2017年『母という名の女』では「ある視点」部門で審査員賞を受賞したほか、数多くの映画賞を獲得。そして2020年『ニューオーダー』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。ほとんどの作品で監督・脚本・製作を務めるなど、その強烈な作家精神で常にメキシコ映画界をけん引し世界の注目を集めてきた。2015年のベルリン国際映画祭パノラマ部門で最優秀新人監督作品賞を受賞したガブリエル・リプスタイン監督の『600マイルズ』、同年ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したロレンソ・ビガス監督の『彼方から』などの製作も手掛けている。
監督・脚本:ミシェル・フランコ
出演:ジェシカ・チャステイン、ピーター・サースガード、メリット・ウェヴァー、ブルック・ティンバー、エルシー・フィッシャー、ジェシカ・ハーパー
2023 年/103 分/アメリカ・メキシコ/英語/シネマスコープ/5.1ch /原題:MEMORY/日本語字幕:大西公子
配給:セテラ・インターナショナル
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