『あんのこと』この1作で日本映画の可能性を示してくれている作品

『あんのこと』この1作で日本映画の可能性を示してくれている作品

2024-05-29 13:00:00

この作品と出会えたことを感謝するぐらい感動を覚える作品だ。実際、この1作で日本映画の可能性を示してくれていると言っても言い過ぎではない。実話を元にしたストーリーとのことだが、映画芸術としても極めて高い作品だ。この作品は、音と映像だけでは表現し得ないものを伝えることのできる映画だ。つまり、主人公の痛み、主人公が生活する空間の空気感、そして、登場人物たちが生きている肉体をもった人間であることが意識できるくらい、その息づかいまでもが伝わる映画である。

これは、2018年に製作された『アイカ(キノフィルムズ配給作品)』という作品を思い出さずにはいられない映画だ。主演の河合優実は、『アイカ』でカンヌ国際映画祭主演女優賞に輝いたサマル・イスリャモヴァに匹敵する演技力と存在感を見せている。画面で見る限り、河合は、映画の画面に、役者特有の自分をよく見せたいという雑念がなく、別人格を演じているのではなく、主人公のあんに自分の気持ちを同期させ、あんとして行動していたからこそ、ナチュラルな演技が生まれたのではないかと思う。こういう演技を極限まで追求したのがサマル・イスリャモヴァであり、河合がそのレベルまで到達していることは驚くべきことだ。河合はこれから日本を代表する女優に成長していく予感をこの映画で示している。河合優実の自然な演技を引き出しているのは、間違いなく、本作品の入江悠監督の卓越した演出力であり、自然光で撮影されているかのような非常に計算された照明であり、各カットの構図が綿密に設計されながらドキュメンタリーと見間違うかのような、偶然を演出している高度な撮影技術である。

シナリオも秀逸だ。主人公もさることながら、佐藤二朗演じる多々羅刑事、そして、稲垣吾郎演じる桐野記者、母親役の河井青葉、すべてのキャラクターが薄っぺらではなく、重層な奥行きのあるリアリティに溢れている。

内容は、実話で、極めて深刻なテーマであるため、普通に生きている人々には、自分とは関係のない話だと思うかもしれないが、この作品のもつリアリティや赤羽をはじめロケ地となった場所の持つ力が、人々をこの実話に結びつけてしまう。遠い話に思えた人も、この映画を見終わった後は、自分の問題であることに気がつくだろう。

この映画に関しては、これ以上の説明はいらないだろう。とにかく、この映画を見ていただきたい。

 

入江悠 監督インタビュー


──まず企画の発端を教えてください。

本作プロデューサーの國實瑞惠さんから「映画にしてみませんか?」と、1 本の新聞記事をもらったのがきっかけです。コロナ禍で命
を断ったある若い女性についての記事でした。彼女は幼い頃から母親の虐待を受け、売春を強いられ、薬物中毒に陥っていた。

再起に向けて頑張っていた矢先、新型コロナウイルスが感染拡大し、みずから命を絶ってしまったといいます。私たちの社会、もっと
言えば自分のすぐ隣にこういう子がいたという事実に、まず衝撃を受けました。さらにもう 1 つ。記事を読んだ少し後ですが、彼女の
更生に尽力していたはずの元刑事が別の相談者への性加害容疑で逮捕されたんですね。ニュースを知って愕然とし、深く考え込
んでしまった。それでリサーチを始めたのですが、脚本を練っていく過程で、自分の個人的感情も重なっていきました。


──個人的な感情、といいますと?

2020 年、わたしも 2 人の友人を亡くしました。コロナ禍が始まった当初、人と会ったり会食することを避けねばならない空気があり、
連絡もしなかったのです。ある日突然、報せを受けました。人と人の繋がりがこんなにもあっさり断ち切られてしまったことがショックで
した。2 人がどんな状況に置かれていたのか、詳しいことはわかりません。でも少なくとも自分の心には、強烈な悔いが残りました。と
いうのもわたし自身、コロナ禍を通じて、自分という存在の予想以上の脆弱さを感じていたからです。社会との接点を奪われ、孤
立を強いられたとき、人は容易に絶望に陥ってしまう。日常から寛容さが失われたとき、友人たちは SOS を出したくても出せなかっ
たんじゃないか。鎮魂というと大げさに響きますが、2 人の抱えていた孤独感や絶望と向き合わない限り、自分がもの作りをしている
意味がないのではと思いました。


──入江監督はデビュー作から一貫して、娯楽映画に「剥き出しの社会と個人」という視点を盛り込んできました。今回もその意識は強かった?

2020 年から 21 年にかけて社会を覆ったあの空気を、忘れないように記録しておきたい。そういう気持ちはありました。でも、コロナ禍と社会的弱者というようなテーマがあったわけではなく、むしろ記事に書かれていたひとりの女性について、より深く知りたいという動機が先にありました。たしかに彼女の人生は過酷といえます。でもそれは、わたしの友人たちがそうであったように、少し条件が揃ってしまえば誰にでも起きうることなのかもしれない。と同時に、彼女にも楽しく豊かな時間はあったにちがいない。そう考えたとき、彼女の人生と並走し、その体温を身近に感じてみたくなったんです。わたしはこれまで、物語の着地点が比較的明確な娯楽作を撮ってきました。でも今作は違います。モチーフは実際の事件ですが、撮り終えたときに自分が何を感じているのか、取材を始めた時点では何もわからなかった。他者の人生を勝手に総括し、結論を与えることは失礼だと思ったのです。その意味では初めての挑戦でしたし、これまで培ったノウハウとか方法論はすべて捨てようと、最初から決めて臨みました。


──主演の河合優実さんにはどのような印象を?

聡明で、独特の魅力を持っている方だと思っていました。実際に今回初めて一緒に作品に取り組んでみて、浮ついたところが少しもなかった。俳優さんは多かれ少なかれ、演技を通じて自分の見え方をある程度は意識せざるを得ないところがあるものですが、河合さんにはそういった作為をほとんど感じないんですね。ただ目の前の役に対して、ひたすらまっすぐ、誠実に取り組んでいく。この人なら杏という主人公を託してもきっと大丈夫だと、そう感じたのを覚えています。


──主人公を描くにあたり、河合さんとはどのようなやりとりを重ねましたか?

モデルになった女性について関係者から話を伺ったり、薬物についてのレクチャーを受けたり、2 人でいろいろ話し合ったりしました。
撮影前に確認したのは、「この子をかわいそうな存在と考えるのはやめよう」ということです。彼女は 1 人の人間として、自分の人生を懸命に生きていた。映画制作の過程では、さまざまなパートのスタッフや俳優たちが把握するため、人物をわかりやすくとらえようとしがちです。でも今回はそうじゃなくて、河合優実さんという俳優の肉体を借りて、モデルとなった女性が向き合っていた世界を、皆で一緒に再発見していきたかったんですね。役者にとっては痛みを伴うやり方ですが、彼女は文字通り全身全霊で向き合ってくれた。わたし自身、現場で河合さんの表情や言葉に触れながら、そうか、杏っていうのはこういう子だったのかもしれないと少しずつわかっていった気がしました。撮影中、河合さんに「今、杏はどんなこと思ってますか?」と聞いたことはあっても、「こういう感じで演じてください」とお願いしたことはありません。自分にとっては未経験のアプローチでしたが、役を引き受ける覚悟も含めて、河合さんでなければ成立しなかったと思いますね。


──佐藤二朗さん演じる多々羅刑事の演出で苦労したことはありますか?

杏とは対照的で、ほとんどなかったです。こういう男性像の方が、やっぱり自分には掴みやすかった。熱血でバイタリティがあって人助けの手間も惜しまない。でも自分の欲望にはけっこう簡単に流されてしまう。ある種、古いタイプの男性像ともいえるので、昭和の時代を知っている身としては、こういう人いたよねととらえやすい。さらに佐藤さんが脚本により深みを与えてくれたと思います。現場では驚くほど緻密な演技プランで、人懐っこさとだらしなさが入り混じった男を演じてくださいました。もちろん多々羅がした行為は、絶対に許されない。現実社会では法的に罰せられる行為です。でも物語の中で、彼に何らかのジャッジを下す描き方はしませんでした。それは、本作では杏という女性にどこまでも寄り添って歩こうと最初に決めたからです。少なくとも彼女にとって、多々羅は自分を暗闇から引っ張り出して、別の道を示してくれた存在だった。その魅力、温かみがスクリーンから滲むのは、むしろ自然なことだろうと。ただ、それとは別に多々羅というキャラクターが、時代の変化をそのまま映した側面はあるかもしれません。これが昔なら、薬物更生者に尽力する刑事という美談の方ばかりクローズアップされ、ハラスメントは告発されなかったかもしれない。でも今では、「彼はいいこともしていた」という言い訳は許されない。『あんのこと』では、2020 年に起きていたことと自分なりにちゃんと向き合いたかったので、多々羅もある意味、その一断面なのかもしれません。


──週刊誌記者・桐野役の稲垣吾郎さんとは、現場でどんな話をされましたか?

桐野もまた、実在の方をモデルにしたキャラクターです。実際の事件を取材された新聞記者さんをベースに、ストーリーを語るうえで必要な要素をいくつか加えている。多々羅役の佐藤さんと同じで、彼の内面や演技の方向性についてはほとんど相談していません。
それでも桐野という人物が抱える独特の居心地の悪さ、どっちつかずの葛藤みたいなものを、稲垣さんが絶妙に体現してくれました。
本作における桐野って、ある種の観察者なんですね。もちろん杏の更生を心から願って、サポートもしています。でも彼女が信頼する多々羅については、ジャーナリストとして疑念を持っている。2 人の関係を知れば知るほど、自分の職務をまっとうするのが本当に正しいことなのか、わからなくなっていくわけです。このジレンマはある種、僕自身の皮膚感覚と近いかもしれません。稲垣さんが凄いのはそのアンビバレントさを、微妙なたたずまいで表現できることです。劇中で、桐野が自分の心情を語る台詞は一切ありません。
シーンによっては無表情で、何を考えているのか見えにくいこともある。でもトータルの芝居には何とも言えない揺れが滲むんです。
見事だと思いました。


──撮影期間中、とりわけ心に残ったことを挙げるとすると?

先ほど、本作の撮影では明確な終着点を設定せず、杏という主人公が「今、何を思っているんだろう」と探っていったという話をしました。自分にとっては、これまで撮ってきた映画とは根本的に異なるアプローチです。そのスタンスを、『あんのこと』のチームでは本当に深く共有できました。たとえば、物語に何らかのメッセージを込めようとか、観客の気持ちをある方向に引っ張ろうとか、そういうことは一切考えませんでした。プロデューサー、スタッフ、俳優、誰もそういうことを言わなかった。それがとても嬉しかったです。その原動力となったのは、やっぱり河合さんの芝居だと思います。たとえば今回、カメラマンの浦田秀穂さんのご提案で、シナリオにはなかった杏のシーンを現場でかなり追加で撮ってるんですね。散らかった団地の室内。荒川の橋の上。本編で使われる予定はなくても、そういう 1 人の時間を切り取ることで、彼女の生きていた世界をスタッフ全員が徐々に掴んでいきました。現場だけじゃありません。カメラテストも実際のロケーションで衣装を着てやりましたし、杏が母から暴力を受けるシーンも「どういう種類の暴力がありえるんだろうか」ということを、河合優実さんと母役の河井青葉さんとともにエチュードをして、意見を交換しました。編集という最終プロセスも何度もやり直して、杏の人生について考えることができた。モデルとなった方に失礼がないよう、誠意を持って皆で映画を作っていけたことは真に貴重で、贅沢な体験でした。

入江悠
監督・脚本
1979 年 11 月 25 日、神奈川県出身、埼玉県育ち。日本大学芸術学部映画学科卒業。2009 年、自主制作による『SR サイタマノラッパー』が大きな話題を呼び、ゆうばり国際ファンタスティック映画オフシアター・コンペティション部門グランプリ、第 50 回映画監督協会新人賞など多数受賞。2010 年に同シリーズ『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、2012 年に『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』を制作。2011 年に『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』で高崎映画祭新進監督賞。『AI 崩壊』(20)で日本映画批評家大賞脚本賞。
その他の作品に『日々ロック』(14)、『ジョーカー・ゲーム』(15)、『太陽』(16)、『22 年目の告白-私が殺人犯です-』(17)、『ビジランテ』(17)、『ギャングース』(18)、『シュシュシュの娘』(21)、『映画ネメシス 黄金螺旋の謎』(23)など。


ストーリー

21歳の主人公・杏は、幼い頃から母親に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅という変わった刑事と出会う。
大人を信用したことのない杏だが、なんの見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。
週刊誌記者の桐野は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた。ちょうどその頃、新型コロナウイルスが出現。杏がやっと手にした居場所や人とのつながりは、あっという間に失われてしまう。行く手を閉ざされ、孤立して苦しむ杏。そんなある朝、身を寄せていたシェルターの隣人から思いがけない頼みごとをされる──。


『あんのこと』予告編



公式サイト

 

2024年6月7日(金) 新宿武蔵野館、アップリンク京都、ほか全国順次ロードショー

 

Cast
河合優実 佐藤二朗 稲垣吾郎
河井青葉 広岡由里子 早見あかり

Staff
監督・脚本:入江悠
製作総指揮:木下直哉 企画:國實瑞恵 エグゼグティブプロデューサー:武部由実子 プロデューサー:谷川由希子 関友彦 座喜味香苗 音楽:安川午朗 音楽プロデューサー:津島玄一
撮影:浦田秀穂 照明:常谷良男 録音:藤丸和徳 編集:佐藤崇 音響効果:大河原将 美術:塩川節子 スタイリスト:田口慧 ヘアメイク:大宅理絵 金田順子
助監督:岡部哲也 キャスティングディレクター:杉野剛 制作担当:安達守 ラインプロデューサー:山田真史
製作:木下グループ 鈍牛倶楽部 制作プロダクション:コギトワークス 配給:キノフィルムズ

© 2023『あんのこと』製作委員会 PG12