『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』時代を先取りする天才音楽家・加藤和彦の宇宙に浸るドキュメンタリー
“同じものは作らない”をモットーに、常に新しい風をおこしながら時代を駆け抜けた音楽家・加藤和彦の功績を辿るドキュメンタリー。「トノバン」は彼の声が、スコットランドのフォークロックミュージシャン「ドノヴァン」の声に似ていることからつけられた愛称だという。
監督は、これまで数多くのミュージックビデオの演出・プロデュースに携わり、前作で音楽ドキュメンタリー『音響ハウス Melody-Go-Round』を手掛けた相原裕美。シンガーソングライターでありドラマーの高橋幸宏が加藤和彦に対する想いを相原監督に語ったことがきっかけとなり、本作の企画がスタートしたという。
どこか飄々としてつかみどころのない天才音楽家、加藤和彦。フォーク、ロック、ボサ・ノヴァ、トロピカル・サウンド、レゲエ、タンゴなど、いつでも時代を先取りしながら、常に新たなサウンドを生み出してきた。本作を観れば、まず彼の独創性がどれだけ周囲を驚かせたかがよくわかるだろう。そしてさらに凄いのは、彼の生み出すサウンドが今もってまったく古びていない、どころか、そのハッとするような瑞々しさと斬新さをキープし続けていることだ。
「加藤和彦が生きていたら、ぜひ彼に食べて欲しかった新作です」と言って高級料亭の板前さんが披露したのは、じゃがいものポタージュにうなぎをのせてピンクペッパーを散らした一皿。品があるのに型破りで、誰でも知っている馴染みのある食材なのにどんな味か想像がつかない……。まるで加藤和彦の楽曲ではないか!
さらに彼は、音楽だけでなく、ファッションも料理の腕前も一流だった。精神的にも物理的にも風のように縦横無尽に旅をする彼にとって、どれも世界観を形作る重要なファクターだったに違いない。時代とジャンルと国を超越した、あらゆる面でボーダレスな彼の音楽はきっと、今この“風(情報)の時代”に再び見出されるにふさわしく、まさに“今”必要とされている感性なのだ。それも、若い世代のアーティストたちによるTeam Tonoban(加藤和彦トリビュートバンド)が名曲「あの素晴しい愛をもう一度」を新たにレコーディングするラストシーンを観れば、きっとご納得いただけるだろう。
さぁ劇場で、彼の独創性と無限に広がる宇宙に没入してみてはいかがだろうか。
加藤和彦
Kazuhiko Kato
音楽家
1947年3月21日生まれ。生まれは京都だが、小学3年ころまで鎌倉、その後は高校3年まで東京・日本橋で過ごした。高校2年のころ、ラジオで聴いたボブ・ディランに興味を持ち、銀座のヤマハで輸入盤レコードを取り寄せ。何故か楽譜集も一緒に来たことをきっかけにギターを始める。高校卒業後は、仏師だった祖父の意向で京都の龍谷大学に入学。京都での生活が始まった後、男性ファッション誌「メンズクラブ」にフォーク・グループのメンバー募集を掲載し、広告を見て集まった仲間らとザ・フォーク・クルセダーズを結成する。1967年、アルバム「ハレンチ」を自主制作。ここに収められていた「帰って来たヨッパライ」がラジオで流れたことで注目を浴び、その後1967年12月25日にメジャーレコード会社からリリースされ、オリコン史上初のミリオンヒットを記録する。「帰って来たヨッパライ」は、当時ビートルズのアルバム「リボルバー」を聴き、その実験的なアプローチに衝撃を受けたことから生まれた楽曲である。そして、ザ・フォーク・クルセダーズは1年限定のプロデビューを果たす。セカンドシングルは同アルバムに収められていた「イムジン河」とすぐに決定したが、発売日直前に発売中止に。急遽作った「悲しくてやりきれない」をセカンドシングルとして1968年3月に発売。スマッシュヒットを記録する。1968年10月「フォークル・フェアウェル・コンサート」を行い、ザ・フォーク・クルセダーズは解散する。
ソロ活動では、1969年4月10日にファーストソロシングル「僕のおもちゃ箱」、その後さらに2枚のシングルを発表後、12月1日にソロアルバム「ぼくのそばにおいでよ」をリリース。当初2枚組アルバムでの発売を希望したが、レコード会社の意向により叶わず。アルバムジャケットに(レコード会社の許可を得て)抗議文を掲載した。1970年、学生時代から交際していた福井ミカと結婚。1971年4月きたやまおさむとの連名で「あの素晴しい愛をもう一度」をリリース。同曲は、後に中学校の教科書に掲載されるなど、今もなお歌い継がれる名曲として名高い。
1971年10月5日セカンドソロアルバム「スーパー・ガス」を発売。日本で初めてシンセサイザー(ミニムーグ、アープ2600)を使ったレコーディングであり、日本で初めてプロデュースクレジットを入れたアルバムでもある。同時期、海外と日本の音響システムの違いを感じ、日本のロックコンサートでも良い音を鳴らすために日本で初めて本格的なPA会社であるギンガムを設立した。ソロになってからはイギリスへ頻繁に遊びに行くようになっており、T・REX、デヴィッド・ボウイなどに触れ、アメリカンロックとは違うかっこよさを日本でも表現したくなり、妻のミカをボーカルに迎え、ロックバンドを結成。1972年6月2日、加藤和彦との「サイクリング・ブギ」をリリースする。1973年5月5日にアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」を発売。当時は斬新すぎたのか日本ではあまり話題にならなかった。しかし、ロンドンのロックシーンで評価され、自らプロデュースしたいと名乗り出たクリス・トーマス*1をプロデューサーとして迎え、日本と外国の邂逅をテーマにセカンドアルバム「黒船」を制作。ジャケットに一切タイトルを載せないスタイルを希望したがレコード会社が難色を示し、日本で初めて帯付きのレコードとしてリリースした。1975年10月2日から24日までロキシー・ミュージックのオープニング・アクトとしてイギリス・ツアーに参加することになり、このツアーのために急遽アルバム「ホット・メニュー」を制作。ツアー時、オックスフォードのヴァージン・レコードのディスプレイがリチャード・ブランソンの手によりサディスティック・ミカ・バンド仕様にされた。イギリスから帰国後、ミカと離婚。サディスティック・ミカ・バンドも解散する。その後、作詞家の安井かずみと出会い、1976年に結婚。約1年休養のあと、ソロ活動を再開する。創作面でも二人は支えあい、アメリカ・アラバマ州のレコーディング・スタジオ、マッスル・ショールズでアルバム「それから先のことは」を制作し、1976年12月20日にリリース。続くアルバム「ガーディニア」は、坂本龍一、高橋幸宏、鈴木茂、後藤次利をセッションメンバーに迎え、ボサ・ノヴァに挑んでいる。
1979年「パパ・ヘミングウェイ」、1980年「うたかたのオペラ」、1981年「ベル・エキセントリック」を発表。この3枚のアルバムを総称して「ヨーロッパ三部作」と言われている。レコーディングには、すでにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)として、多忙を極めていた高橋幸宏、坂本龍一、細野晴臣(細野晴臣は「パパ・ヘミングウェイ」以外に参加)、そしてYMOのサポートメンバーでもあった大村憲司、矢野顕子が参加している。
その後もソロアーティストとして、1983年「あの頃、マリー・ローランサン」、1984年「ヴェネツィア」、1987年「マルタの鷹」を発表。このころより、村上龍原作・監督『だいじょうぶマイ・フレンド』(83)や薬師丸ひろ子主演『探偵物語』(83)などの映画音楽を多く手掛け、市川猿之助主演・演出のスーパー歌舞伎では歌舞伎界初のフルオーケストラサウンドを入れるなど、新たな才能を開花させていく。1989年に桐島かれんをボーカリストに迎えてサディスティック・ミカ・バンドを再結成。アルバム「天晴(あっぱれ)」をリリース。
その後は、ザ・フォーク・クルセダーズの新結成。木村カエラをボーカリストに迎え、サディスティック・ミカ・バンドの再々結成、坂崎幸之助とのユニット和幸、小原礼、屋敷豪太、土屋正巳、ANZAによるVITAMIN-Q featuring ANZAとして活動した。
学生時代にコックをめざしていたこともあり、料理の知識と腕前はプロレベル。高橋幸宏、松山猛とともにファッションブランド「Bricks」をつくるなど、料理、ファッションにも造詣が深く、一流を愛した。トノバンは愛称。2009年10月16日逝去。享年62歳。
相原裕美 監督コメント
前作『音響ハウス Melody-Go-Round』完成試写会の時に、高橋幸宏さんから何気無く「トノバン(加藤和彦)って、もう少し評価されても良いのじゃないかな?今だったら、僕も話すことが出来るけど」と言われたのが、加藤和彦さんに強く興味を持ったきっかけでした。
それから、加藤さんの事を調べれば調べる程、革新的な事や、新しいスタイルを産み出している事等々、音楽業界にいながら加藤さんの事を本当に知らなかった、と愕然となりました。
取材は約1年で50人に及び、素材もアーカイブを含むと100時間は下りません。当時のアーカイブは残っているものが少なく、権利関係も複雑で苦労しましたが、加藤和彦さんのことならば、と協力を申し出る方も多く、大変お世話になりました。
出資で参加していただいた企業は加藤和彦さんに関係した会社が多く、公開に併せてトリビュートライブや新譜のリリース等も予定しております。
関係各位に感謝するとともに、微力ながらこの映画が、加藤和彦さんの再評価につながればと思います。
相原裕美
Hiromi Aihara
監督
1960年生まれ、神奈川県出身。コネクツ合同会社 代表、プロデューサー、映画監督。
ビクタースタジオでレコーディングエンジニアを経験した後、1984年ビクター音楽産業(株)(現ビクターエンタテインメント)ビデオソフト制作室に異動、制作ディレクターとなる。
オリジナルビデオ企画編成の傍ら、ミュージックビデオの黎明期と重なり、同社アーティストのミュージックビデオを演出・プロデュース共、数多く手掛ける。主なアーティストはサザンオールスターズ(メンバーのソロも含む)、ARB、Cocco、頭脳警察、フライングキッズ、永瀬正敏、斉藤和義など多数。その仕事の中で当時新人だった岩井俊二や下山天ら映画監督を見出した。
2003年スペースシャワーミュージックアワードでプロデュースした「東京」桑田佳祐(演出:信藤三雄 脚本:リリー・フランキー)がVIDEO OF THE YEARを受賞。
2004年同社映像制作部を設立し同部部長、お笑いレーベル『コンテンツリーグ』の設立や映画に参入。2009年同社退社後、2010年コネクツ合同会社を設立。
イントロダクション
なぜ今! 加藤和彦のことを語るのか⁈
日本の音楽史を変えた先駆者、加藤和彦にフォーカスした
初めてのドキュメンタリー映画
まだネットもSNSもなかった時代。若者世代が支えていた深夜ラジオから、日本全国へ人気が広まったザ・フォーク・クルセダーズの一員。ピンク・フロイドやロキシー・ミュージックを手掛けた新進気鋭のプロデューサー、クリス・トーマスが自らプロデュースしたいと名乗り出て日本よりも先にイギリスで評価されたサディスティック・ミカ・バンドのリーダー。高橋幸宏、坂本龍一、細野晴臣らのYMOメンバーの参加を得て、加藤和彦作品の金字塔と呼ばれたヨーロッパ三部作に代表されるソロアーティスト。作曲家、プロデューサー、アレンジャーの幾つもの顔を持ち、手掛けたアーティスト、楽曲は数えきれない。いつの時代も必ず一歩先にいた音楽家、それ故に後年悩みも深かった加藤和彦の、輝かしい軌跡を追う世界初のドキュメンタリー映画がついに完成した。
MUSIC (劇中使用楽曲)
BITTERSWEET SAMBA
イムジン河
悲しくてやりきれない
僕のおもちゃ箱
あの素晴しい愛をもう一度
春夏秋冬
サイクリング・ブギ
黒船(嘉永6年6月2日)
どんたく
マダマダ産婆
颱風歌
キッチン&ベッド
君の便りは南風
戻っておいで・私の時間
SMALL CAFÉ
うたかたのオペラ
浮気なGigi
ディアギレフの見えない手
帰って来たヨッパライ
イムジン河
コブのない駱駝
日本の幸福Ⅱ
結婚しようよ
せっかちと
快傑シルヴァー・チャイルド
タイムマシンにお願い
塀までひとっとび
WA-KAH!CHICO
シンガプーラ
Gardenia
流れゆく君へ
不思議なピーチパイ
サン・サルヴァドール
おかえりなさい秋のテーマ
絹のシャツを着た女
Je te veux
あの素晴しい愛をもう一度~2024Ver.
作詞:北山修 作曲:加藤和彦 編曲:高野寛
Performed by Team Tonoban
『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』予告編
公式サイト
2024年5月31日(金) TOHOシネマズ シャンテ、アップリンク吉祥寺、ほか全国順次ロードショー
Cast
きたやまおさむ 松山猛 朝妻一郎 新田和長 つのだ☆ひろ
小原礼 今井裕 高中正義 クリス・トーマス 泉谷しげる 坂崎幸之助
重実博 コシノジュンコ 三國清三 門上武司
高野寛 高田漣 坂本美雨 石川紅奈(soraya) 他
Archive
高橋幸宏 吉田拓郎 松任谷正隆 坂本龍一
他(順不同)
Staff
企画・構成・監督・プロデュース:相原裕美
制作:COCOON 配給・宣伝:NAKACHIKA PICTURES
協賛:一般社団法人MAM
2024年|日本|カラー|ビスタ|Digital|5.1ch|118分
ⓒ2024「トノバン」製作委員会