『無名』第二次世界大戦下の上海を舞台に暗躍するスパイたちを歴史に忠実に描いた〈時代の挽歌〉
第二次世界大戦下における上海を舞台に、中国共産党、国民党、日本軍との間を行き来するスパイたちによって繰り広げられる攻防戦を緊迫感たっぷりに描いたスパイ・ノワール。
スタントなしの迫真のアクション。身をよじらせながらも、リアルで執拗なアクションシーンについ見入ってしまう。しかし観終わったあと心に残るのは、アクションというよりむしろ、スパイたちの雄弁な目とニュアンスの効いた表情だ。
監督は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海』のチェン・アル。脚本も手掛け、編集、主題歌の作詞まで行う。本作で中国映画祭最高の栄誉とされる第36 回金鶏賞に8 部門でノミネートされ、最優秀監督賞と最優秀編集賞を受賞した。
主人公フー役には、ウォン・カーウァイ監督の『花様年華』で第53 回カンヌ国際映画祭 最優秀主演俳優賞を受賞し、『シャン・チー テン・リングスの伝説』でハリウッドデビューも果たした香港出身の世界的俳優トニー・レオン。もう一人の主人公イエ役には、俳優として第20 回映画チャンネルメディア大賞主演男優賞ほか数々の賞を受賞し、歌手、ダンサー、ラッパー、バイク・レーサーとしても活躍する今注目の若手ワン・イーボー。
コラージュのような作り、印象的なワンシーンがリフレインする様は、まるで脳裏に焼きついた記憶の断片が時折フラッシュバックしている誰かの脳内を映し出しているかのよう。観客は誰かの脳内を通ってストーリーの奥へと容易に侵入し(まさにスパイのように)、リアルに追体験する。これが、本国中国で約181 億円(9.3 億元)を上回る興行収入を生んだ「仕掛け」なのかもしれない。
一方、非常に完成度の高いスパイ映画と喧伝したいところだが、監督は本作について以下のように語っている。
「私は常に『無名』はスパイ映画ではないと考えています。より歴史を描く作品であり、すべての出来事はできるかぎり真実の歴史の中に溶け込ませました。ですが、無理やりにその時代にはめ込むのではなく、その時代の挽歌にしたいと考えていました」
また、上海を舞台に選んだことについては、「過去を繋ぎ、未来を切り拓く転換期であり、この時代にはさまざまな思想の潮流が生まれ、さまざまな勢力や人物が登場し、何らかの文明を築こうとした。明るい面もあるが、残酷な場所でもある。上海を使ってこの時代を表現することは、非常に豊かで大きなコントラストを持つのではないかと思った」と語っている。
チェン・アル 監督インタビュー
――何年もの時間を隔てて、また監督の作品がスクリーンに戻ってきました。映画『無名』の創作の原点がどこにあるのか、とても興味があります。なぜ1941 年の真珠湾攻撃後の上海を舞台にされたのでしょうか?そしてなぜスパイアクションのサスペンス映画というスタイルでこの時代を描こうと考えられたのでしょうか?
前作の映画と同様に、『無名』は中華民国時代のドラマです。1941 年は東南アジアにおいて重要な転換点となる年で、上海だけでなく、アジア全体にとって重要な時点です。私個人としては、『無名』は単なるスパイ映画、もしくはサスペンス映画とは考えていません。あの時代を生きた様々な立場の人物が登場し、それぞれの目標を追いかける物語です。
――この映画には、実際にその時代に発生した歴史背景があります。創作にあたってどれくらいの資料を調べたか、お伺いしたいです。また資料を調べる過程で、どんな意外な驚きがあったか教えてください。
歴史を扱う映画においては、当然資料を読み込む経験が必要です。私の場合は、ある程度十分に読み込んだ後、ある人物、もしくはある出来事が、ずっと記憶の中に留められます。そして、それは時間が経っても忘れられないものであり、それが最終的には自然と脚本の基礎となるのです。
――この映画は、まるで過去と現在を旅して、その中で観客に謎を投げかけているような感覚でした。映画の物語は過去と現在を行き来しており、かなり複雑です。観客がより理解できるために、監督として撮影や編集でも苦労されたかと思います。一番難しかったのはどのような点でしょうか?また監督や編集をする時にはどのような点を重視されましたか?
私は時間が連続していない描き方を好んでよく使います。そのほうが記憶や、思い出の感じ方に近いからです。そして物語により宿命が感じられます。基本的に脚本は、現在の順番で構成されています。ですから撮影の時点で、編集点(編集の際に、どことどこのカットをつなぐかを決めるポイント)を設定するために、ある一定の力を注いでいます。最終的に編集は、脚本と撮影での意図に沿って行われますが、必然的に新たな展開になることもあります。
――映画の中では、中国語の標準語だけでなく方言も出ています。このような方言を使ったのは、何か特別な考えがあったのですか?
そうです。標準語以外に大量の上海語と広東語を使用しました。言語も映画においては非常に強みのある表現方式で、観客をすばやくシーンの中に引き込むことができます。例えば上海では地元の上海語を話すことで、一種のよりリアルな雰囲気が醸し出され、観客が物語により入り込みやすくなるのです。
――トニー・レオンとワン・イーボーの殴り合いのシーンには息を呑みました。撮影には9日間かかり、俳優と制作チームにとって、とても大きな挑戦だったと思います。撮影では何に重点を置きましたか?
格闘のリアリティに重点を置きました。最後に息苦しくなるような格闘を描きたいと思っていました。できる限り余計なものを取り除き、単純な格闘を試みました。スタントは準備せず、2人の俳優への要求は体力など様々な面で非常に高かったですが、最終的にとても完成度が高くなりました。
――『無名』は映像が美しく、映画に登場する調度品も非常に美しいと評判です。監督自身が小道具全てにまで非常に細かな要求をされていたと聞きました。監督が一番こだわられたのはどんな点でしょうか?
私は画面に映るあらゆるものにこだわります。耳目を一新するような、観客が見慣れたものではなく、かつ合理性のあるものを心掛けました。
――フラッシュバックの語り口は『無名』の独特の特徴ですね。映画を見終わった後に、すべての謎が解ける刺激があります。ですが、映画の冒頭では理解できず、ついていけない観客もいるかもしれません。そのような心配はありませんでしたか?
これはよくある描き方で、独特とは言えません。私は個人的にこのような時系列通りではない描き方を用いています。パズルのピースをはめるような快感に似ています。静かで落ち着いた展開の後、ある種の答え、もしくは劇的なクライマックスがやってくるのです。そしてこうした語り口にすることで、物語に宿命感が生まるのです。
――前作の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海』(1616)に続いて、『無名』も20 世紀の30 年代から40 年代の上海を背景に、乱世の人物を描いた映画です。どうしてこのような背景の映画を撮ろうと思ったのかとても興味があります。
20世紀の前半に起きたあらゆる出来事が、アジアの歴史に深く影響を与え、現在のアジアを形成しました。資料を読み込み、この時期の歴史の流れを整理すると、ある人物や史実が心の中に残ったんです。そうした時間がたっても忘れられない部分が、脚本の根源になったのかもしれません。
程耳
チェン・アル
Cheng Er
監督・脚本・編集
1976年生まれ。1999 年に北京電影学院映画学部を卒業。監督・脚本・編集をつとめた短編『犯罪分子』 原題・99) が第27 回トロント国際映画祭に出品されるなど国際的に高く評価され、サイコ・スリラー『第三个人』 原題・07 では監督・脚本を担当し、数々の賞にノミネートされた。『辺境風雲』 原題・12 では、再び自ら監督・脚本・編集をつとめ、第13 回中国映画メディア大賞で最優秀新人監督賞と最優秀作品賞に輝いた。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海』( では第8 回中国映画監督協会賞にて最優秀監督賞を受賞。『無名』にて第36 回金鶏賞で最優秀監督賞・編集賞を受賞。常に観客の予想を裏切るような作風で知られている。
ストーリー
1941年、上海。汪兆銘政権の諜報員フー(トニー・レオン)と部下のイエ(ワン・イーボー)は、日中戦争勝利に向け日々諜報活動に明け暮れていた。第二次世界大戦が激化する中、フーは、任務に失敗して処刑されるはずだった国民党の女スパイ(ジャン・シューイン)を密かに助けたことで、代わりに上海に住む日本人要人リストを手に入れることに成功。また、イエにはファン(チャン・ジンイー)という婚約者がいて……。
『無名』予告編
公式サイト
2024年5月3日(金) ヒューマントラストシネマ有楽町、シネマート新宿、アップリンク吉祥寺、アップリンク京都、ほか全国順次ロードショー
Cast
フー トニー・レオン
イエ ワン・イーボー
チェン ジョウ・シュン
ジャン ホアン・レイ
渡部 森博之
タン ダー・ポン
ワン エリック・ワン
ジャン ジャン・シューイン
ファン チャン・ジンイー
Staff
監督・脚本・編集:チェン・アル
撮影:ツァイ・タオ
2023年 中国/131 分/1.85:原題:无名/中国語・広東語・上海語・日本語 カラー/5.1ch
字幕:渡邉一治 配給:アンプラグド
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