『レオノールの脳内ヒプナゴジア』脳内アクションスターのおばあちゃんが主人公の奇想天外メタアクションコメディ
本作は「なぜ、私たちの歴史の中で、何百本もの映画の中で、アクションおばあちゃんは出てこないのだろう?」という監督の疑問によって生まれた、奇想天外なメタアクションコメディ。
かつて監督・脚本家として名を馳せた72歳のあるおばあちゃんが、脚本コンクールの新聞広告を見て一念発起し、未完の脚本を仕上げていると、ある時、なんと上から落ちてきたテレビが頭を直撃。彼女はヒプナゴジア(半覚醒)に陥り、テレビの中の世界に入り込んでしまうのだが、そこは自分が書いていた脚本の世界そのものだったーーという、なんとも摩訶不思議な物語である。
監督を務めるのは、本作が初の監督作となる、フィリピン・マニラ出身の新鋭マルティカ・ラミレス・エスコバル。21歳から8年がかりで完成させ、脚本は25稿にまでなったという。主演のおばあちゃんレオノールには、フィリピン人として初めてロンドンのロイヤル・ナショナル・シアターで公演した名優で、本作が初主演となるシェイラ・フランシスコ。
奇想天外なストーリー展開と共に、本作を特徴づけるのは、暴力描写とアクション。とはいえ、「脳内アクションスターのおばあちゃん」という斬新な設定で、すべて脳内のできごとだから、どこかおかしみがある。おばあちゃんの想像という前提によって、安心して見ることができ、面白味が増しているのだ。また、アクション描写は抜かりなく王道で、これまでのカンフーアクション映画へのオマージュが込められてもいる。女性の豊かな感性とアーティスティックなセンスで味付けしたニュータイプのアクション映画である。
監督は本作が生まれた背景について、「私は、混沌とした、しかし個性と謎に満ちた魅力的な都市、マニラで生まれ育ちました。少し前のことですが、法律や統治に関する素養のない有名なアクションスターが、第13代フィリピン大統領に就任しました。当時6歳だった私は、少女として、有名な人が選ばれるのは自然なことだと感じていました。それから数十年、さらに2人の『アクションスター』が大統領になった今、私はこの不条理な現実に疑問を感じていましたが、映画への愛と重ね合わせれば、こんなにも簡単に理解できることに驚いています」と語る。
続けて「私たちがフィクションを愛するのは、それが私たちの現実を曖昧にしてくれるからだという啓示です。私が何日もかけて映画を見るのは、起きている現実には決して存在しないような場所に連れて行ってくれるからです」とも語っている。
本作はまさに、「現実には決して存在しないような場所に連れて行ってくれる」映画体験となるに違いない。
マルティカ・エスコバル 監督インタビュー
――あなたとフィリピンのアクション映画との関係から教えてください。
この映画のアイデアは、モーフェルファンド(フィリピンの映画関連団体)にいた時に生まれました。そのとき演出の先生達もモーフェルファンドを訪れていたのですが、彼らはまるでフィリピンのアクション映画から飛び出してきたような人たちでした。それを見て私は、いつも年配のマッチョな人たちに囲まれている、と思い始めたのです。なぜ、私たちの歴史の中で、何百本もの映画の中で、アクションおばあちゃんは出てこないのだろう、と疑問に思ったのです。
それが種になりました。さらに掘り下げてみると、「フィリピンのアクション映画は細部については具体的に覚えていないにもかかわらず、どんな映画なのかは良くわかるのです。それはなぜだろう」と自問しました。なぜ、こんなにも身近な存在なのだろう。それは、幼い頃から地元のテレビで放映されていた映画に慣れ親しんできたからだと思います。何年もかけて吸収し、自分の中に取り込んでいったのです。
その実感は、書きながらさらに進化していったと思います。アクションというジャンルに、多くの人が影響を受けているように見えるのはなぜでしょう? アクションスターの一人が大統領になるくらいにね。しかも、その一人だけではありません。FPJ(Fernando Poe, Jr、大統領選にも出馬)もいました。そして今も、私たちの政府にはアクション俳優のような大統領、マッチョな人たちがいます。でも、私はそれに共感もしたのです。一人の人間として、スクリーンの向こうの登場人物に救われるかもしれないと、今でもなんとなく感じています。なんだか気持ち悪いですね。そんなの現実じゃないのに。
でもそれは、映画が私たちを変え、人間や人生の見方を変えることができるという証明だとも思います。重要なのは、TVを正しいと信じ込むのではなく、自分で考えたり、批判したりすることです。私の母は、ティックトックを信じ込んでしまっています。
――映画監督として、映画における暴力の描写についてどのように感じていますか?
「映画」と「アクション映画」では、かなり違うんでしょうね。「アクション映画」は非常に暴力的でなければなりません。武器も必要だし、血も必要だし、たくさんの人が死ななければならない。しかしそれは、私が取り組む方法ではないのです。この映画では、おばあちゃんというレンズを通して、彼女を取り巻く問題や葛藤を、優しいアプローチで捉えようとしました。愛を通して、コミュニケーションを通して、ね。私は自分のおばあちゃんに多大な影響を受けています。彼女はとても苦労した人で、いつもポジティブで、笑顔を絶やさない人です。
――それは興味深いですね。私はこの作品を、暴力を問題解決の手段として提示するこのジャンル全体を、国家レベルまで引き上げて清算しているように読みました。ヒーローが暴力で問題を解決するのを見て育った世代から、どのような国が生まれるのかを問うているかのようです。それがあなたの信念ですか? これらの映画と、私たちが今日直面している国家としての問題との間に、関連性を見出すことができると思われますか?
直接的な相関関係があるとは言えません。しかし、この国では暴力が普通であるかのように思われるのは、そのせいもあるのでしょう。暴力が物事の解決策になりうるということが常に示唆されているのです。
――映画で楽しむ暴力というものはあるのでしょうか?
そうですね、映画の暴力はドン引きします。でも見返すと、やっぱり面白いんですよ。そうそう、そこが病んでいるところなんです。なぜ、私は暴力を楽しむのだろう? 自分でもよくわからないんです。
――これらの暴力的なアクション映画を見返して、何を学びましたか?
そういう風に考えていなかったので、学んだことは何かと問われると難しいですね。でも、どうしてこんなに似ているんだろうとは思っていました。もし、これらの映画同士を編集してごちゃ混ぜにしたら、どの映画がどの映画なのか識別するのは難しいと思います。アクション映画とは、何か一つの大きな塊のような気がします。
――お気に入りのアクションスターはいますか?
FPJはとても好きでした。彼は最後の最後まで、謙虚でいることをいとわない人でした。彼の描く善良な男にはリアリティがあります。
――最初のアイデアは、おばあちゃんが主人公のシンプルなアクション映画だと仰ってましたよね。
もともとのアイデアは、主人公が自分の人生を終えようとしていて、彼女が書いている映画の中で自分の人生を終えるというものでした。自分の人生がありのままに描かれた人物にこそ、私は最も魅力を感じます。
――それのどこに魅力を感じますか?
私たちは皆そういうものだと思いますが、私たちの決断はすべて、正しいと思うことに基づいてされます。それが予測できない世界で生きる私たちのあり方なのです。
それは、人間が日々を機能させるためのものだと思うんです。私はそれを書くことだと考えています。そしてそれは、誰かが私たちの人生を書いていると、とらえることができるかもしれません。だから、編集者がいて、監督もいる。自分の人生を書いているのは私たちだけではありません。世界には他の力もあるのです。
――つまり、あなたは世界をこの共同執筆プロジェクトとして見ているようなものですね?
あるいは、私たちは自分の人生を書いているとばかり思っていて、本当は他の誰かが書いている、などですかね。
――それは、宗教的なものですか? それより高い力ですか?
むしろ、なぜ私はこのようなことをしているのだろう? なぜ、このようなことが起きているのか? なぜ映画を見たいと思う人がいるのか? 誰のための映画なのか? 何のためなのか? ということをいつも考えているんです。でも、この世界には独自の決定論があるような気がします。私たちは自分の人生を書きたいと願っても、それはできません。
――あなたの映画には幽霊が登場します。どの時点で、幽霊と会話できる世界にしようと決断したのでしょうか?
そうですね、私は本当に幽霊と話ができるような気がしているんです。私たちが必要とするとき、彼らはそこにいるのです。私は霊を信じますし、人に思いを伝えることができると信じています。そして、幽霊が私たちに反応することを信じています。夢や思考を通してね。
映画に出てくる幽霊は、私の家族の話からきています。私の母と祖母は、25歳で亡くなった叔父の話をしてくれました。その叔父が、幽霊になって、ベッドで二人の横に座っていたことがあって、それが、私にとって、幽霊の存在という考え方の原点となったイメージです。私たちは、幽霊と共に生きています。彼らはここにいるが、私たちは彼らの体を見ることができないだけなのです。
――それは特にアジア的なものですよね。西洋の伝統では、幽霊を見たらパニックになりますよね。でも、アジアでは、私たちは幽霊の中で暮らしています。映画の中で、幽霊は単に彼らの生活の一部である、と表現していますね。それは、あなたの考え方なのでしょうか?
そうですね。
――幽霊に関する個人的な体験はありますか?
いいえ。でも、信号が送られてきたら信じますね。
――どのような信号ですか?
この映画を完成させたとき、祖父が亡くなりました。そして、この映画がいつかどこかで大勢の観客を集めて上映されるようにと願ったんです。祖父は、私にサンダンスを与えてくれたような気がします。彼は、私が望むものを知ってくれていたのです。私が望むもの、つまり大勢の観客です。
招待状をもらったとき、真っ先に感謝したのは祖父でした。でも、これは私の言い訳で、世の中をそういうふうに理解しようとしているだけかもしれません。私たちは皆、この人生に意味があるように見いだし、パターンを見つけようとしているだけなのです。
――この映画には、とても個人的な側面があります。文字通り、あなた自身がこの映画の中に入っているのです。この映画を作るにあたって、どのような場面でそれが生まれたのでしょうか?
それは脚本にありましたね。たぶん2、3稿目。この映画は、私が人生で何をしたいのかに向き合うことでもあるような気がします。つまり、8年前なら、それは映画製作だったと言えるでしょう。でも、今はそうでもない? わからないですね。
――では、どのようにしてそこにたどり着いたのでしょうか? 映画の中で自分が映画の終わり方について話すことになったのはどうしてですか?
そうですね、深夜で、眠れなくて、これが私のために書かれた人生なのかなって思ってて……そうでないような気がしたからです。編集者がいるような、違う星があるような、誰かがコントロールしているような、そんな気がしたんです。そこで、編集を見るというシーンを出したんです。
――本作はかなり長い間、制作が続けられてきました。最初に思い描いていたものと、最終的な作品はどれくらい違うのでしょうか?
かなり近いと思います。撮影を始める頃には、自分が何を目指しているのかは、はっきりしていました。最初の4年間は、この作品の撮影で、ストーリーの本質を見極めるために多くの時間を費やしました。まだ若い映画監督だった私は、この映画にたくさんのアイデアや独創性を盛り込もうとしていました。それがだんだん削られていき、より共感性のある、あるいはより意味のある決断ができるようになりました。この映画は、私と共に歳をとっていったのです。
――本作を制作する上で、一番苦労したことは何ですか?
明らかに資金調達ですね。撮影の8年間は、物乞いの8年間でもありました。他に大変だったのは、この映画の正しいエンディングを見つけることだったと思います。エンディングのバージョンは4種類ありました。(プロデューサーの)MarioとMonsterがエンディングを見たとき、「物語はどこにあるのか? アークはどうなったんだ? 母子の物語はどうなったんだ?」と聞いてきました。それらを見つけるのに、彼らは本当に大きな助けになってくれました。
――この映画は、少なくとも部分的には、この映画監督が、自分の作品によって社会全体に対して何を働きかけてきたかを理解する内容にもなっています。
はい。私には映画監督としての責任があると思います。そして私が発信したものを人々が受け入れてくれるということを確信しています。
――映画監督としての責任は何だと思いますか?
私はただ、人々に何か良い貢献をしたいのです。人生をもっと愛おしく思ってもらえるように。それがいつも私の原動力です。
――映画を観た人にどんなことを考えてほしいですか?
大きなことでも小さなことでも、人生について考えてほしいんです。思い描くきっかけになるようなことがあれば、それで十分です。
――好きな映画監督は?
チャーリー・カウフマン、日本では是枝裕和、とくに『空気人形』です。
マルティカ・エスコバル
監督・脚本
マルティカ・ラミレス・エスコバル、通称マーティ。1992年マニラ生まれ。奇想天外なものに対する彼女の愛情は、映画や写真を通して最もよく反映されている。フィリピン大学を優秀な成績で卒業した後、彼女の卒業制作「Stone Heart」は、石に恋する人の物語、第19回釜山国際映画祭に出品され、世界各地で上映された。シネマラヤで最優秀作品賞を受賞しています。最新作「Quadrilaterals」は、第9回DMZ国際ドキュメンタリー映画祭でプレミア上映された。 来日は3回目。1回目は2016年タレンツトーキョー、2回目は2018年家族で旅行に福岡へ。次回作は「人魚」がテーマ。
ストーリー
かつて映画監督だったレオノールも72歳になり今では電気代も払えずにいた。彼女の二人の息子のうち兄ロンワルドはずっと以前に事故で亡くなっており、残された弟ルディも仕事で遠くに行くことになった。そのせいでレオノールは精神的にも落ち込んでいた。
そんなある日、新聞に掲載されていた脚本コンクールを目にした彼女は、現状を抜け出すために映画脚本の執筆に取り組み始める。その内容は「殺された兄の仇を弟が討つアクション映画」で、昔に書いたものの未完で終わっていた作品でもあった。脚本のアイデアを考えながら歩いていると、運悪く近所のカップルが投げたテレビが降ってきてぶつかってしまう。
その結果、レオノールはヒプナゴジアに陥り現実と物語の世界を行き来するようになってしまった。その物語の世界とは、先ほどまで執筆していた仇討ちアクション映画の世界だった。レオノールは自分で書いた脚本の世界に入り込んでしまったのだ。
レオノールは物語の世界で、兄の仇を討とうとする主人公と出会い共に旅をする。現実世界では、意識を失って入院しているレオノールをルディが看病をしていた。物語の世界では、レオノールは息子を亡くした女性と出会う。そこでレオノールは言った「私もロンワルドを撮影中の事故で亡くしてしまった」と。この未完の物語は亡くなったロンワルドへの贖罪の物語でもあった。
ルディは今まで母親に対して冷たく応対していたことを悔い、レオノールを脚本の世界から引き戻そうとするが、レオノールは病室からもいなくなってしまう。ルディは現実の世界でレオノールを見つけようと奮闘する。かたやレオノールは物語の世界で未完脚本の結末を見つけようと奮闘する。過去に中途半端で終わってしまった自作品への納得のいく結末を……。
『レオノールの脳内ヒプナゴジア』予告編
2024年1月19日(金) シアター・イメージフォーラム、アップリンク京都、ほか全国順次ロードショー
監督・脚本:マルティカ・ラミレス・エスコバル(初長編監督作品)
出演:シェイラ・フランシスコ、ボン・カブレラ、ロッキー・サルンビデス、アンソニー・ファルコン
2022年/フィリピン/99分/フィリピン語/字幕:日本語、英語 原題:Ang Pagbabalik ng Kwago 英題:Leonor Will Never Die
日本語字幕:細田治和
配給:Foggy、アークエンタテインメント