『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』唯一無二の”ロック・ファミリー・ヒストリー”

『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』唯一無二の”ロック・ファミリー・ヒストリー”

2023-08-22 22:50:00

『シーナ&ロケッツ 鮎川誠〜ロックと家族の絆〜』は、ロック・バンドの曲名風にいうならば「ロック・ファミリー・ヒストリー」だ。

題名の建て付けが「シーナ&ロケッツ」「鮎川誠」「家族の絆」と3つの部分からなっているのは、数回テレビ放送された番組が1本の映画になったせいだろう。2015年シーナの没後、RKB毎日放送に勤務する監督の寺井到が鮎川誠にシーナの故郷北九州若松でのインタビューを追悼番組で流したのがこの映画の発端だ。

次に放送されたのは、2022年7月に『74歳のロックンローラー 鮎川誠』という30分の番組。そして鮎川誠がなくなった7日後2023年2月5日にTBSで『シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢』という60分の番組が放送された。その後取材を重ね作られたのが98分の本作だ。

「歌いたい」と突然バンドのボーカルになった後のシーナとなる悦子。鮎川誠はずっとロックンローラーのファッションだが、悦子のファッションが普通からどんどんロックになってシーナになって行くのが残された写真と映像で見せてくれる。シーナの死後も、鮎川誠はバンド活動を継続し、次女がマネージャーになり、三女がバンドのボーカルを取る。その理由について、娘たちは、父鮎川誠のギターの音をずっとみなに聴かせたいから、とインタビューに答える。

また、この映画は「ロック・ファミリー・ヒストリー」とは別に「めんたいロック・ヒストリー」でもある。田原祐介のロック喫茶「ぱわぁはうす」、松本康のレコード屋「ジュークレコード」が、めんたいロックのバックボーンとしていかに重要な存在だったかを紹介する。小さくともリアルに人が集う場が、文化を生むのにいかに大切かを教えてくれるのだった。

本作は、家族でロックバンド活動を行っていたという世界的に見ても珍しい存在だった『シーナ&ロケッツ』のロック・ファミリー・ストーリーだ。

「生活とロックはイコールだというところにシーナが引き込んでくれた」

━━ 鮎川誠

 

鮎川誠
1948 年5 月2 日生まれ、福岡県久留米市出身。九州大学農学部卒。70 年に福岡を代表するバンド「サンハウス」を結成し、75 年にメジャー・デビュー。翌年にシーナと結婚し、78 年に「シーナ&ロケッツ」を結成。「ユー・メイ・ドリーム」でブレイクし、YMO のツアー帯同や海外アーティストとの共演を重ねるなど国内外で活躍。また、俳優としてドラマや映画にも出演し、その独特の存在感で多くの人を惹きつけた。
「シーナ&ロケッツ」は15 年のシーナ急逝後も活動を継続。22 年には45 周年記念ライブや全国ツアーなど精力的にライブを重ねていたが、23 年1 月29 日に膵臓癌のため74 歳で逝去した。

シーナ&ロケッツ
1978 年の結成以来、日本のロックシーンで抜群の存在感を誇り、“シナロケ”の略称で愛されてきたギターロックバンド。

 

寺井到 監督インタビュー


――出会い

寺井到が初めて鮎川誠と対面したのは、RKB 毎日放送で自身が立ち上げた音楽情報番組「チャートバスターズR!」に鮎川がゲスト出演した2000 年代の半ば頃だったという。

「大御所なのでどっしり構えていらっしゃるのかと思ったら、“よろしくね!”みたいな感じでフランクに接してくださった。ああ、すごく優しい人なんだなぁというのが第一印象でした。うち(RKB 毎日放送)のスタジオには昔ラジオ放送で使ったあと廃棄処分になりかけたレコードがセットとして飾ってあるんですけど、収録のあと鮎川さんはそれを熱心に見ていて、“これ、ちょっと聴いてみてもいいかな?”って。THE ROUTERS というグループの『Let's Go! With the Routers』というレコード。それをかけた途端、鮎川さんの腕にはっきりわかるくらい鳥肌が立ったんですよ。“どうしたんですか?”と訊いたら、昔ラジオで聴いていた番組のテーマソングだと。でもそれにしたって、音楽を聴いて鳥肌を立てるなんて、よっぽどじゃないですか?! 音楽好きの人間として、自分なんか全然かなわないレベルにいらっしゃるんだなと思いましたね」

また鮎川はそのとき、「チャートバスターズR!」という番組名に触れ、「昔、ビザークレーってレコード会社のコンピレーションで、“チャートバスターズ”ってのがあったね」と、さらりと言ったそうだ。

「それまでは“ゴーストバスターズのもじりですか?”と聞かれることが多くて、由来を説明してもわからないだろうからいつもお茶を濁していたんですけど、鮎川さんはあっさり正解を口にした。しかも“当てちゃろか”みたいな感じは全然なくて。自分は学生の頃からジュークレコードに立ち寄っては、そこが鮎川さんと繋がりのある店だとも知らずにいろんなレコードを漁って聴いていたわけですけど、結局昔から鮎川さんがリスナーとしてひっかかっていた音楽の世界のなかにいたんだなぁと実感した瞬間でした」

寺井は90 年代後半のウィルコ・ジョンソンの福岡公演に鮎川とシーナがゲスト出演したのを観るなどしてシーナ&ロケッツの音楽とビジュアルのかっこよさを感じてはいたが、「かといって、初めからどっぷりハマっていたというわけではなかった」と振り返る。

「正直に言うと、めんたいロックというものから距離を置いていた。“博多のロックはこうだ”“北九州の不良っぽいロックとはこういうものだ”というような圧を感じ、福岡育ちの自分としては、むしろそういうところに取り込まれたくないという気持ちがあったんです」だが鮎川に会い、先の言葉のような気づきがあった。その大きな優しさに触れ、以来、はっきりと尊敬の念を持つようになったのだそうだ。

――シーナの追悼特集番組・ドキュメンタリー番組を経て映画化まで

15 年2 月にシーナが亡くなり、当時ラジオ版「チャートバスターズr!」を担当していた寺井は、ジュークレコードの松本康を番組に呼んだ。その際、松本がシーナの四十九日法要で3 月末に北九州・若松に帰る鮎川と会うと聞いて同行。シーナの実家の近くを鮎川と歩き、シーナが好きだった若戸大橋の下などでインタビューし、寺井がディレクターを務めていた情報バラエティ「豆ごはん。」のシーナ追悼特集でそれをもとに作られた再現ドラマを流したりした。

そしてそのときのインタビューが、鮎川のドキュメンタリーフィルム制作の起点となった(そのときの鮎川のインタビューは、16 年8 月に西日本新聞社から出版された「シーナの夢 若松,博多,東京,HAPPY HOUSE」にも収められている)。

「鮎川さんのインタビューを元に構成したシーナさんの追悼特集はけっこう反響があって、鮎川さんのご家族も喜んでくれた。そこから鮎川さんとお会いする頻度も増え、いつか鮎川さんと何かやれたらいいなと思っていたんです。

で、19 年から自分がドキュメンタリー制作の担当になったので、”今の鮎川さんを取材したい”と申し出た。どういう切り口にするかは決めていなかったんですが、福岡でシーナ&ロケッツのライブが何本かあったので、とりあえずそこに行ってカメラを回して。そのときはもう三女LUCY さんがヴォーカルになっていたし、純子さんがマネージャーだったから、ますます家族一丸となってやっているんだなぁと感じ、そこを軸にした番組を作るのがいいんだろうなと思ったんです。家族一丸でやっているロックバンドって、ありそうでないじゃないですか。スタッフに家族がいるとかはあるけど、父親がギターで娘がヴォーカルというのは世界でも珍しい。そういうところを紹介することで鮎川さんの求心力とか親としての姿も伝えられるんじゃないかなと」

そのときの撮影は、「74 歳のロックンローラー 鮎川誠」という30 分のドキュメンタリー番組として形になり、九州地区で22 年7 月に放送。後にRKB 毎日放送の公式YouTube チャンネルに2 週間限定でアップされると、すぐに10 万回再生を突破した。その反響の大きさから、TBS の隔週日曜深夜の番組「ドキュメンタリー“解放区”」にて1 時間の拡大版が放送されることに。「シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢」と題され、23 年2 月5 日の放送が決まっていた。だが、放送日の7 日前に鮎川誠、死去。番組内容はシーナを失ってからも精力的にステージに立ち続ける鮎川の情熱を伝えるものだったがしかし、番組の最後に次のようなテロップが加えられた。「シーナ&ロケッツ鮎川誠さんは1 月29 日 永眠されました。最後の瞬間までロックに身を捧げた生涯でした」。

寺井は振り返る。

「これはあとでわかることですけど、30 分の番組が7 月に放送された時点で、ご家族は鮎川さんのご病気のことをわかっていたわけですよね。だからその時点で何か理由をつけて、“しばらく取材をご遠慮ください”と僕に言うことだってできたわけだけど、そうしないで取材を続けさせてくれた。それはありがたいことだったなぁと、今改めて思います。もしもそこでご病気のことを知らされて、“誰にも言わずにそのまま撮ってください”と言われていたら、中身にも影響が出て、ああいう仕上がりにはならなかった。“解放区”の放送がお亡くなりになられた翌週だったので、ああいうテロップを入れざるを得なくなりましたけど、そんなつもりでカメラを回していたわけではないので。たまたま去年、コロナが収まりつつあったから取材を申し込んだわけですし。でもその時期の取材をしていなかったら、最期に至るまでの鮎川さんの姿というのは残っていなかったわけで、そう考えると何かめぐりあわせのようなものを感じますね。“お前が記録しろ”という天の采配があって、自分が選ばれたのかなと。だからこのお仕事は最後までちゃんとやらなきゃという意識があるんです」

「ドキュメンタリー“解放区”」で放送された「シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢」はその後、未公開映像が加えられ、3 月開催のTBS ドキュメンタリー映画祭にて東京限定で上映(その後、4 月28 日~5 月11 日に福岡で凱旋上映)。だが寺井はカメラを置かず、その間にも取材を続けた。改めて鮎川陽子、純子、LUCY MIRROR 三姉妹の話を聞き、下北沢の家の鮎川のいない部屋にも入った。また鮎川に影響を受けたり関わったりしてきたミュージシャンや俳優からも話を聞き、それらの映像や未公開の映像をふんだんに使って再編集・再構築を行なった。そうして完成したのが、『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』だ。

――福岡の音楽シーンと「語り継ぐ」ということ

作品は鮎川と家族のことだけでなく、福岡の音楽シーンがいかにして形成されていったかも伝えられる。

「これもたまたまですけど、去年の9 月に松本康さんが亡くなられたあと、閉店前のジュークレコード店内で松本さんについてのインタビューを鮎川さんにしたんです。今考えると、その時点でご自身のがんも末期の状態にあったわけですけど、それでもそれを受けてくれたのは、ジュークレコードが福岡の音楽シーンにおいてどれだけ重要だったかということをちゃんと語って残さなきゃという気持ちがあったんじゃないかと。あるとき突然福岡のシーンができあがったわけではなく、原点があってああなった。この映画で言うと“ぱわぁはうす”や“ジュークレコード”の存在が大きくて、そういう場所から人や文化が育っていったということですけど、鮎川さん自身がそうした歴史感にすごく意識的な人だったと僕は思うんです。何かがあってこうなったという因果関係。そういったものの捉え方は、“ぱわぁはうす”でロックのルーツであるブルースを勉強していたときからあったんだろうなと。ロックという音楽はその時代その時代のファッションや流行を身に纏う傾向にあるけど、それ以前にあった音楽に影響を受けて、小石が積まれるようにしてできあがっているという側面もある。いきなり新しい音楽がポンと生まれるわけではない。そういうところを深く内面化していたのが鮎川さんだったし、それだけに謙虚だったんだと思うんです」

そう話す寺井に、映画のなかで特に気に入っているシーンを聞いてみた。

「ふたつあって、ひとつは鮎川さんがセットリストをいつ決めるかの話を楽屋でしているところ。そのときの空気を見て直前に決めたいというのがあるけど、そうすると周りの人がたいへんだっていうのもわかっているんでしょうね。

そこにLUCY さんが“(決まるのは)直前です! 無茶ぶりの連続!”と突っ込む。そうすると鮎川さんがしどろもどろになって(笑)。あんなふうにしどろもどろになるのが鮎川さんの人のよさですよね。もうひとつは、3 人の娘さんの名前の由来を話すところ。あの話をジュークレコードの店内で聞けたことにも、めぐりあわせを感じました。ああいう話って自分からは言わないじゃないですか。まして鮎川さんは照れ屋だし。でも僕のような第三者が聞いたことで、ああいう言葉を残すことができたんだなぁと」

家族ではもうひとり、孫の唯子が鮎川のライブ中に楽屋で音に合わせて踊っているシーンがあり、そこもとてもいい。踊る唯子が希望の象徴のように感じられるのだ。「やっぱり子供は可能性のかたまりだし、家族に明るさを与えますよね。純子さんは純子さんで、自分が体験したように、お父さんと回ったライブを娘に見せたい、鮎川さんという存在を自分の娘にもちゃんと触れさせたいという思いがあったんじゃないでしょうか」

陽子、純子、LUCY、それに唯子。鮎川の幼馴染みや大学の後輩。鮎川から受け取ったことについて語っている多くのミュージシャン。さらには大勢のファンたち。それぞれのなかで、鮎川誠は今も生きている。「“いた”ってことがすごいんだ」と甲本ヒロトが震えるほど的確な言葉でそれを表現しているが、寺井もまたこう話す。

「これを追悼映画にはしたくないという気持ちがずっとあるんです。葬儀の様子とかも入っているのでどうしてもそういうトーンは出てしまうけど、鮎川さんがいたからこういうものに出会えましたとか、こういうことに立ち会えましたとか、それぞれにとってのそういうものが集まってこの映画になっていると感じてもらえたらいいなと」

そして、こうも続けた。
「“いなくて寂しい”は、もういいかなって思うんです。もちろん、もうお話を聞けないんだなと思うとすごく寂しいですよ。でも、それだけ話を聞きたいと思う人と僕は実際に会えたんですから。それを少しでも記録にして人に伝えることが自分にできることだなと思ってやっている。自分は自分で、いいと思うことをやり続けること。それが鮎川さんのご恩に報いることになるんじゃないかと思うんです。これを観てくれた人も、鮎川さんがそうだったように、自分のいいと思うことを続けよう、貫こうと思ってくれたら嬉しいですね」

寺井到(てらい・いたる)
監督
1971 年、福岡県北九州市生まれ。九州大学を卒業後、RKB 毎日放送に入社。00 年10 月にスタートして昨年6月まで約20年続いた深夜の音楽情報番組「チャートバスターズR!」を立ち上げ、演出も約10年間担当。情報番組「豆ごはん。」のディレクターも13年から17年3月まで務めた。19年から同社でドキュメンタリーの制作を担当し、19年の「さよなら前田有楽〜成人映画館最後の日々〜」がギャラクシー賞月間賞を受賞。昨年放送された「もうひとつの八幡製鉄所・君津 ~「民族大移動」から50 年~」も好評を得た。今年6月には鮎川誠の盟友・松本康と、氏が立ち上げた博多の輸入レコード店「ジュークレコード」のドキュメンタリー「ジュークレコードの時代~「音楽の図書館」を作った男~」が放送されたばかり。

 

ストーリー

「死ぬまでロック」。

その言葉を体現してみせたギタリスト、鮎川誠。福岡県久留米市に生まれ、75年にブルース・ロック・バンドであるサンハウスの一員としてレコード・デビュー。翌年シーナと結婚し、サンハウス解散後にはシーナ&ロケッツを結成して上京。79年には、細野晴臣が作曲とプロデュースで関わった「ユー・メイ・ドリーム」で大ヒットを飛ばす。以来、約36年間をシーナと共にバンドで転がり続け、15年にシーナが急逝してからもバンドを続けた。ロックの衝動をそのまま表現したかのような音の鳴りとスタイルはまさに唯一無二だった。

揺るぎないロック哲学とロック教養を持った鮎川誠というギタリストはまた、妻と3人の娘たちと過ごす時間を何よりも大事にした。「生活とロックはイコールという世界に、シーナが引き込んでくれたんだと思う」。そう語られる本作は、家族との穏やかな日常を大切にしながらロックに生涯を捧げた鮎川誠の、胸を打つドキュメンタリーだ。23年春に開催されたTBSドキュメンタリー映画祭で上映された『シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢』をもとに、所縁ある人物へのインタビュー映像や秘蔵の未公開映像を加えて再編集。初期シーナ&ザ・ロケッツの演奏シーンから、ラストライブとなった「シーナ&ロケッツ45周年ライブ」まで、多数のライブ映像に加え、「ユー・メイ・ドリーム」の初期バージョンの貴重音源など、音楽ファン垂涎の映像がふんだんに盛り込まれている。ナレーションにはバンドのファンでもあった俳優の松重豊が加わった。

「優しいことがカッコよく見える人は他にはいない」と鮎川にとことん惚れ込んだという寺井到監督。笑顔でロックを続けた日本で最も愛されたロックンロール・ギタリストの素顔と、最後までステージに立ち続けたいという情熱、そして生涯見続けた夢とは――。


Photo by Bob Gruen


Photo by Hiroki Nishioka


Photo by Fred B Slinger

 

『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』予告編



公式サイト


2023年8月11日(金・祝) 福岡先行公開

2023年8月25日(金) アップリンク京都、ほか全国順次ロードショー

2023年10月予定(順次公開) アップリンク吉祥寺

 

出演:鮎川誠 シーナ 鮎川陽子 鮎川純子 LUCY MIRROR 唯子
ナレーション:松重豊

監督・編集:寺井到
撮影:中牟田靖 宮成健一 丸本知也
編集:高尾将
音効・MA:寺岡章人
協力:ジュークレコード ロケットダクション ビクター・エンタテインメント
プロデューサー:緒方寛治 坂井博行
製作:RKB毎日放送
製作幹事:TBSテレビ
配給:KADOKAWA
宣伝:KICCORIT

2023 年/日本/カラー/16:9/5.1ch/98 分
©RKB毎日放送/TBSテレビ