『プーチンより愛を込めて』ウクライナ戦争につながるプーチンの素顔を描く

『プーチンより愛を込めて』ウクライナ戦争につながるプーチンの素顔を描く

2023-04-20 11:11:00

『プーチンより愛を込めて』は、健康を理由に退任したボリス・エリツィンの後を継ぎ大統領代行に就任し、ロシア連邦第2代大統領に選ばれたウラジミール・プーチンの1999年12月31日からの1年間を追った映像を編集して完成したドキュメンタリー。第53回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を受賞。

自身の後継者としてプーチンを20人の候補者から選んだエリツィンだが、やがて自分が利用されていることに気が付く。エリツィンは丸1年後の自宅でのインタビューで、ソ連国歌を復活させたプーチンについて「赤」と断言するまでになった。
強いロシアの再建を目指すプーチンの信念は、ウクライナ侵略へと繋がっていると言えるのではないだろうか。

1991年12月ゴルバチョフ大統領の辞任に続き、ソビエト連邦を構成する各共和国が主権国家として次々と独立しソ連崩壊がおきた。新たに成立したロシア連邦では、脱ソビエト化を推し進めていたエリツィン大統領により、ミハイル・グリンカ作曲による『愛国歌(愛国者の歌)』が国歌として採用された。しかし、同曲はメロディのみで歌詞がなく、旧ソビエト連邦時代の国歌復活を望む声も強かったことから一般には定着しなかった。

2000年の大統領選挙でプーチンが大統領に就任し、彼は強いロシアの再建を目指すべく、旧ソビエト連邦時代の国歌『ソビエト連邦国歌』のメロディを復活させ、同曲の作詞を行ったセルゲイ・ミハルコフに新たな歌詞をつけさせた。こうして生まれた『ロシア連邦国歌』は、2001年1月1日から正式にロシア連邦の国歌に定められ、テレビ・ラジオ放送で一日2回放送することが法律で義務付けられている。

マンスキー監督は日本公開に向けて、次のようなコメントを発している。

「この映画は、黙って同意して犯罪の目撃者になったすべてのロシア国民の個人的責任も、集団的責任の認識もあったからこそ、制作しました。今のロシアでは、このような映画を作ることができる人物や状況を想像することはできません。独裁者から独立した裁判所も、独立した報道機関も、独裁者と何らかの形で議論できる社会もないからです。どの国であっても、どの民族であっても、自由と民主主義が保証されているわけではないと強く申し上げておきたいです」

ヴィタリー・マンスキー監督インタビュー


©Robert Tappert

──本作制作の経緯をお教えください。最後のナレーションで「自分はただの証人と甘く見た代償を払った」と言っていますが、それが、本作を作った理由でしょうか?

はい、その通りです。この映画は、黙って同意して犯罪の目撃者になったすべてのロシア国民の個人的責任も、集団的責任の認識もあったからこそ、制作しました。透明な民主的選挙の代わりに、あるグループが代替手段なしでロシア大統領の後継者を提案することを決定したとき、ロシア国民は、最初の犯罪を目撃し、これを小さな問題と見なしました。しかし、ご存知の通り、この「後継者」という作戦は、最終的に現在のウクライナでの戦争につながり、すべての人に関わる大規模な核戦争の危険につながったことがわかりました。私も 1 億 4500 万人のロシア国民の一人として、沈黙した証人でした。私は当時メディアで働いていて、公人だったので、私の責任ははるかに大きかったと思います。その罪の意識で私は苦しんだり、 悩んだりして、悲しみでいっぱいだったので、本作を作りました。

──本作は、いつ撮影したんですか?

私が 国立テレビチャンネルのドキュメンタリー映画部の部長だった時に、撮影を始めました。「後継者」作戦は秘密裏に準備されていたので、私がプーチンが大統領代行に選ばれたことを知ったのは他の国民と同じ12月31日でした。ロシアでは、12月31日から1月13日まで、どこもお休みになります。しかし、私はプーチンについての資料を探して、撮影を開始するように命じました。当時は、ロシアは自由で、危険やリスクがなかったので、私は直属の上司とさえ調整なしにプーチンについての撮影をはじめました。 それは私の立場としては、当然すべき仕事だったんです。

──プーチンの元教師の訪問の様子がプーチンのPR動画に使われたというエピソードがありますが、どのような経緯だったんですか?

インタビューで、彼の元教師であるヴェラ・ドミトリエヴナ・グレヴィチは、プーチンの学生時代について非常に生き生きと語っており、彼の人格の形成に大きな影響を与えたことは明らかでした。おそらく彼の両親よりも大きな影響を与えたでしょう。しかし、彼女は非常に悪い環境で生活していました。壁の向こうに犬がいて、吠えて眠れない位でした。そのため、もしかしたら、彼女の現実的な日々の悩みをプーチンが解決してくれるかもしれない、そんな思惑から私は、このテープを渡したんです。そしてプーチンは、そのビデオテープを見て、私が所属していたテレビ局の局長との面会に私も招待しました。その時、私は初めてロシア大統領の事務所に行きました。そしてプーチンは、「あなたは誰を取材したか、誰が何を言ったのか」と尋ねました。非公式の会話でした。そして、そこで私は彼に元教師の家での撮影を提案しました。このシーンは非常に感動的で、メロドラマチックなシーンになりました。そして、その時の会話で、誰もプーチンを知らないので、プーチンを撮影したいと提案すると、彼は3〜4日間検討する必要があると言い、その後、OKと答えました。このようにして、映画の撮影を始めました。私が2000年に撮影したこの映画は、プーチンがすでに約1年半にわたって権力を握っていた2001年6月12日にテレビで放送されました。

──冒頭、ご自身の家族のシーンを入れた理由を教えてください。

一つは、一般的な人々の考えは様々であるというのを見せたかったからです。もう一つとして、プーチンがエリツィンの後継者として選ばれたことは、国民全員にとって予想されたことではなかったし、みんながみんな受け入れられることではなかったということをお伝えしたかったからです。

──プーチンの大統領としての1年目に、「見過ごしてしまうような小さな変化が起こっていた」とありますが、そういう小さな変化についてメディアは取り上げていたんでしょうか?

プーチンは大統領に就任して1年目に、全ての独立系のメディアを根絶してしまいました。なので、独立系のメディアは声を失っていました。

──監督はエリツィンのご家族には受け入れられているような印象を受けましたが、プーチンは監督のことをどう思っていたと思いますか?

私はプーチンの信頼を得たとは思わないです。 プーチン大統領にとって、特に撮影の第 2 期では、私はかなり予想外の人物だったと思います。大統領になって最初の数ヶ月で、最もありふれた問題からさらに根本的な問題まで、あらゆる問題について彼に異議を唱えることができる人がいなくなったことをよく覚えています。プーチン大統領をゼロから大統領にした人を含めてです。

当時私は、今そうしているように、それを解読し、それを定式化できるほどは怖かったわけではなかったです。しかし、当時、私はある種の違和感を感じました。彼らはプーチンのイメージを完全に作りました。セーターや犬のような単なるイメージではなく、より広い意味で、です。 つまり、彼は何をすべきか、何を言うべきかについてテキストが書かれ、彼はそれに従いました。
そして突然、ほんの数か月後、彼らは皆、従順な手先に変わりました。 すごく奇妙でした。そして、自分だけだったとは言いたくないし、私自身をヒーローにしたくないですが、私は、いろいろなことに関する自分の意見を言い続けてきた人間でした。そしてもちろん、私は国家の状況に非常に不安を感じていました。

本作の特徴は、すべて2000年から2001年に撮影されたもので、質問もすべて当時のものだということです。当時、私は何度かプーチンと議論しようとしました。彼の視点を共有していない、または議論の余地のないものとして受け入れていない人がいることにプーチンが驚いたのはその時でした。それで、彼は時々突然私を呼んで、再度その話をしました。 彼は正しいことを示したかったかのようで、議論の余地のないのようでした。今のロシアでは、このような映画を作ることができる人物や状況を想像することはできません。独裁者から独立した裁判所も、独立した報道機関も、独裁者と何らかの形で議論できる社会もないからです。

──本作を発表するにあたり、ご自身の身に危険はありませんでしたか?

この映画の製作中と公開された時の、私自身や私の愛する人たちにとっての危険について話したくないし、私自身をヒーローにしたくはありません。 特に今は、戦争で大勢の人が公然と死んでいるので。しかしもちろん、ロシアでは、一見無害に見えることでさえ命が危険にさらされています。たとえばロシア軍がマリウポリの劇場を爆撃したというニュースをFacebookでシェアした人は、8年間投獄される可能性があります。オリジナルの投稿ではなく、単なるシェアで8年間刑務所に送られるのです。ロシア連邦大統領の地位にあるプーチン大統領の存在の正統性、正体、人物そのものに疑問を投げかけるこの映画について、私たちは何を言うことができるでしょうか。もちろん、非常に危険なことですが、2014年にロシアによるクリミア併合のプロセスが始まった時に、私はロシアを去りました。しかし、当時全世界がこの戦争の事実を認識していたわけではありません。私はすでにロシアから独立していたラトビアに移住し、この映画を作りました。なので、私にはある種の保証があったと思います。この映画を製作し、世界の多くの国で公開した後に、何度かロシアに行きましたが、ご覧のとおり、今ベルリンで話しているということは、無事にロシアから出国することができたということです。

── 読者にメッセージをお願いします。

日本を含め、世界のどこにも独裁の影響を受けないと保証される国はないです。そういう国は存在しません。 自由は美しくデリケートな花で、絶え間ないケア、直射日光からの保護、水やり、風からの保護が必要です。自由は非常にデリケートで傷つきやすい生物であり、注意深く監視することが必要です。そのため、自由を守ってください。自由がなければ人生に意味がないので、注意深く、慎ましく自由を庇護してください。

私は北朝鮮に関するドキュメンタリーを撮ったことがあります。韓国にも北朝鮮にも同じように韓国民族が暮らしていますが、方や非常に自由な国であり、もう一方は非常に不自由な国です。つまり、どの国であっても、どの民族であっても、自由と民主主義が保証されているわけではないと強く申し上げておきたいです。

監督プロフィール

1963年、ウクライナ・リヴォフ生まれ。全ソ国立映画大学(VGIK)メジンスキー・スタジオ卒。現代ロシアのドキュメンタリー映像作家/製作者のなかで最も高い評価を受けるひとり。1作目の映画は1989年に発表され、以後30を超える作品を撮っている。1996年以降、ソ連時代(30~90年代)に撮られたアマチュア・ホームムービーのアーカイヴ制作プロジェクトに取り組む。ロシアで最古のドキュメンタリー映画専門のウェブマガジン(www.vertov.ru)の発行人。ロシアの最優秀ドキュメンタリー映画にあたえられる国内の賞LAVROVAYA VETV(月桂樹の枝)の設立者であり、モスクワ・ドキュメンタリー映画祭ARTDOKFESTの会長も務める。山形国際ドキュメンタリー映画祭2001と2007では、『青春クロニクル』(1999)、『ワイルド・ワイルド・ビーチ』(2006)が上映された。

ストーリー

1999年12月31日、この日、ロシア連邦初代大統領ボリス・エリツィンが辞任した。彼は自身の後継者としてウラジーミル・プーチンを指名、3ヶ月後に行われる大統領選挙までの間、ロシアの新しい憲法、国旗は若き指導者に引き継がれた。ヴィタリー・マンスキー監督は、大統領選挙への出馬表明をせず、公約を発表しないまま、名目は違えど“選挙運動”を展開するプーチンの姿を記録していく。ロシア各地へ足を運び、諸問題の解決、第一次チェチェン紛争の"英雄"たちへの慰問や恩師との再会を"演出"したプーチンのPRチームは、国民が抱く彼のイメージを「強硬」から「親身」へと変化させる。マンスキー監督は、オフィシャルカメラマンながら、ソ連時代の旗や国歌が使用されていることに不安を覚え、プーチンに直接斬り込んでいく。2000年3月26日の開票日当日と大晦日の、エリツィン元大統領の自宅での貴重映像を辿ることで、プーチンの本当の姿が炙り出されていく。

 

予告編

 

公式サイト

4月21日(金) 池袋シネマ・ロサ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
6月9日(金)よりアップリンク京都にて公開

監督・脚本・撮影・出演ナレーター:ヴィタリー・マンスキー
出演:ウラジーミル・プーチン、ミハイル・ゴルバチョフ、ボリス・エリツィン、トニー・ブレア、アナトリー・チュベイス、ベロニカ・ジリナ、ライサ・ゴルバチョフ、ミハイル・カシヤノフ 、ミハイル・レシン、ドミトリー・メドヴェージェフ、グレブ・パブロフスキー、クセーニャ・ポナマロワ、ウラジスラフ・スルコフ

2018年/ラトビア、スイス、チェコ、ロシア、ドイツ、フランス/ロシア語/102分/カラー/1.85:1/5.1ch/原題:「PUTIN’S WITNESS」

監修:岡部芳彦
配給:NEGA

©Vertov, GoldenEggProduction, Hypermarket Film-ZDF/Arte, RTS/SRG, Czech Television2018