『幻滅』バンジャマン・ヴォワザン(『Summer of 85』)やグザヴィエ・ドランらが紡ぐ、嘘や詐欺にまみれた19世紀フランスのマスメディアの世界

『幻滅』バンジャマン・ヴォワザン(『Summer of 85』)やグザヴィエ・ドランらが紡ぐ、嘘や詐欺にまみれた19世紀フランスのマスメディアの世界

2023-04-14 12:23:00

本作は、19世紀フランスの文壇を代表する文豪のひとり、オノレ・ド・バルザックが44歳で書き上げた『幻滅——メディア戦記』の映画化作品だ。監督を務めたのは、フランス出身でセザール賞常連のグザヴィエ・ジャノリ。この映画でもセザール賞7部門受賞の快挙を達成している。主演のリュシアンを演じるのは、フランソワ・オゾンの『Summer of 85』(2020)で日本でも大きな注目を浴びたバンジャマン・ヴォワザン。その他にも、監督としても世界的な人気を誇るグザヴィエ・ドランなど魅力的な面々が名を連ねている。

物語の舞台となるのは19世紀前半のフランスのマスメディアの世界。
当時の新聞記者の仕事は、リュシアンが思い描いていたような「新しい文化を世に伝え、人々を啓蒙すること」ではなく、「人々から金を巻き上げながら、株主を豊かにすること」であり、嘘の情報を流すことで社会をコントロールすることだった。さらに、新聞・出版業界には王党派とそれに反発する自由派の2つの派閥が存在し、せめぎ合いの状態が続いていた。自由派についたリュシアンと王党派のドラン演じるナタンの対立や誰かを陥れるための様々な策略が物語をどんどんヒートアップさせていく。

タイトルの「幻滅」という言葉は、本作のストーリーを最も端的に表している。貴族の人妻ルイーズと恋に落ちたことをきっかけに、美の探求のためにパリへ出ることを決意したリュシアン。そこで嘘や詐欺にまみれたメディアの裏側、社会の現実に気付くのだが、野心や欲望に忠実な若い彼を止めるものは何もなく、メディアの汚濁へと足を踏み入れていく。ルイーズや彼の妻となる舞台女優のコラリーの2人の女性との間では情熱的な愛も育まれ、記者としての地位も獲得し、幸せを掴み取ったかのようにみえたリュシアンだったが、彼は自分が破滅へと向かうレールの上にいることには気付いていなかった。

リュシアンという1人の青年の物語がどんな結末を迎えるのか。その答えを、是非劇場で確かめてほしい。

 

グザヴィエ・ジャノリ監督インタビュー

──(『人間喜劇』の一編である)『幻滅』を映画化したいという気持ちは、どのように生まれたのでしょうか。

この小説に出会ったのは20代の頃で、ちょうどリュシアンと同じくらいの年齢でした。私は文学部の学生で、運の良いことにフィリップ・ベルティエという、今や『人間喜劇』の専門家として知られる先生に教えを受けることができました。ソルボンヌ大学を選んだ理由は、映画館が多いカルティエ地区に身を置きたかったからです。当時はまだ方法が分かっていませんでしたが、映画に人生を捧げたいと思っていました。あらゆることが何らかの形で映画に繋がっていたのです…。

当時は、文献やヴィジュアル資料、マルクス主義批評の研究書、あるいは逆に反動主義の耽美派批評の研究書などを読みふけっていました。バルザックは、あらゆる流派の批評家から研究対象にされています。そうして気が付くと、いつの日か『幻滅』を映画化したいという気持ちを抱くようになっていました。ただし、小説の挿絵に色をつけ、ストーリーを不器用にまねた学術的な映画にする気はさらさらありませんでした。芸術は自らが燃やしたものを糧にします。映画とは本来、現実や書物の変形です。そうでなければ、何の意味があるでしょう。

──ストーリーの舞台となる19世紀前半とは、どのような時代だったのでしょう?

フィリップ・ミュレー(Philippe Muray)の本に、とても気に入っているタイトルがあります。『時代を超える19世紀(Le XIXème siècle à travers les âges)』というもので、フィリップはバルザックを頻繁に取り上げ、バルザックの小説の時代と「私たちの時代」を呼応させています。事実、類似点の中にはハッとさせられるものもあります。

フランス革命とナポレオン戦争によりたくさんの血が流された後、フランス社会は一種の平穏を切望し、人々は発展と娯楽を求めていました。王座についたルイ18世は、妥協点を探ります。貴族が王政期の価値観を復活させる一方で、新興ブルジョワ層は社会的、政治的、そして何よりも経済的な覇権を目指していました。そんな世を治めるルイ18世は、断固として保守的でありながら、進行中の進化も無視できない、ある種「兼任」の王だったのです。

アングレームの城壁の下にはフランスの「下層」があり、丘の上には貴族たちの「上層」がありました。『ゴリオ爺さん』に登場するラスティニャックとリュシアンがともにこの地方都市の出身であることは偶然ではありません。その地形は社会的格差を表しており、野心的な2人の青年はそれぞれの方法でこの格差を埋めようとするのです。

ところがパリでは、どこにいるかではなく、どこの出身であるかが重要視されます。パリの裕福な貴族もまた殻に閉じこもっていて、自分たちの特権に執着しています。その中に自分の居場所を見つけるには、価値観を捨ててでも利益への執着が課す新しい「ルール」を受け入れなくてはなりません。映画の最後に、ルイーズがリュシアンに「私たち、どうなったの?」と問いかけます。『そうとは知らない喜劇役者(Les comédiens sans le savoir)』というバルザックのあまり知られていない小説があるのですが、私はこの題名に惹かれます。スペクタクルと化した社会では、自分の意思に反するとしても喜劇を演じる以外に選択肢がないのです。

幻想に胸をふくらませてアングレームからやって来たリュシアンは、ひどいまやかしを覚え、美しい望みを浪費していきます。失われた純真さ、「自分の浪費」、自分の中の美しく貴かったものを「浪費」するというテーマは、特に私の心に響きました。環境によって自分の理想や最も美しい「価値観」を否定せざるをえなくなる、そんな時代の陰湿な手口により、アングレームからパリにやって来た理想家肌の若き詩人は、文学作品を著したかったはずが広告ライターに落ちぶれます。「何でも、すぐに」の罠にはまってしまった……ルストーも「でも、俺にも才能があった。俺だって純粋だった」と告白しています。バルザックは才能ある若者たちがこうした罠にはまり、自分を見失い、自らを浪費していくのを見ていたのです。

世界の皇帝になった小さなコルシカ人をお手本に、若者たちは征服や社会への復讐を夢見ていましたが、今や戦場は遠く...。英雄主義は、よりお金になる出世主義にとって代わられました。最初のビジネススクールが誕生したのもこの時代です。とはいえ、リュシアンは被害者ではありません。それでは簡単すぎます。バルザックは、この「新しい世界」が息をのむほど魅力的だったことにも目を向けています。残酷さと哀愁、この2つの音を喧騒が渦巻く中に響かせたいと思いました。

──当時のジャーナリズムに対して非常に厳しいストーリーですね。

『人間喜劇』における商業出版物は、利益至上主義へと社会が大きくシフトしていることを表すひとつの符号に過ぎません。一業界だけでなく文明全体が押し流されているのです。バルザックは、自分の意見をお金と引き換えにする無法の「ギャング」のような小新聞を厳しい目で見ています。私が撮りたかったのは、キャリアを殺し、劇場で縄張り争いをし、インクを武器に抗争を繰り広げる、ギャングスタ―のような自称ジャーナリストたちです。意地の悪さや残酷さ、悪意は、私にとって暴力と同じくらい映画的な素材です。

しかし、出版物が「商業的」になったその時から、読者の啓蒙以外の目的に応じようとする者が表れることは分かり切っていました。それから程なくして、ランドルフ・ハーストが「誤情報とその否定は、それだけで2つの出来事になる!」と宣言しています。

そして、紙媒体が「危機」にさらされている今日だからこそ、インクや紙、鉛活字、本、羽根ペン、新聞紙といった、今では「数値」や計算、デジタルに脅かされている筆記という文明の「しるし」を撮りたかったのです。今日、お金に依存した不純な芸術である映画こそが、バルザックの眼前で沸騰していた騒動の報告をするべきなのです。

──王政復古期のパリをどのように再現させたのでしょう?

できる限りフランス、それもパリで、「リアル」な環境で撮影できるよう苦心しました。このプロジェクトは、「フランスの素晴らしさ」とその精神、言語、素地、空間へのオマージュでもあります。お分かりだと思いますが、これらはすべて、素晴らしい文明の発露です。

美術のリトン・デュピール=クレモン、衣装のピエール=ジャン・ラロック、撮影監督の鬼才クリストフ・ボーカルヌ、音響エンジニアのフランソワ・ミュジーら皆が、できる限り正確かつ感覚的に当時の感じを復元しようと専心してくれました。私は19世紀のパリの世界に浸るのが好きでした。映画の終盤でコラリーがヤジを浴びる、コンピエーニュ城の忘れられた幻の劇場を発見したときも楽しみました。キューブリックがデザインしたような構図になるのです。遠近法をわずかに歪ませ、ときに画面の端を暗くするような、かなり特殊なレンズを使って撮影しました。精密に再現することで「リアル」感を描くと同時に、ある種のズレといったら良いか、リュシアンが劇場の袖で舞台裏を発見するときの見開いた瞳のような、詩的でときに「幻想的」なカットが欲しかったのです。

特に求めていたのは官能性です。それに、場所や素材、色との有機的な繋がりです。こうしたものすべてが映画、人生、音、動きを構成し、そのものになるようにしたかったのです。社会全体がスペクタクルそのもの、幻想と影のゲームに変貌するけれど、体と肉体的な愛と暴力は「リアル」であり続けます。

バルザックは官能学者で、哲学家で、心理学者で、人類学者で、画家で、映画監督でもありました。たとえば『犯罪大通り』の記述を読むと、彼には映画言語が直観的に分かっていたことが名確に感じられます。視線の文学である映画は、バルザックの世界観と有機的につながっています。エイゼンシュテインは、『ゴリオ爺さん』の演出についての講義でそう語っています。

監督プロフィール

1972年フランス、ヌイイ=シュル=セーヌ生まれ。映画監督であり、脚本家、映画プロデューサー。これまでカンヌ国際映画祭パルム・ドールに2度ノミネートされ、セザール賞の常連でもある。『ある朝突然、スーパースター』(12)でヴェネチア国際映画祭金獅子賞にノミネートされた。

 

ストーリー

舞台は19世紀前半。恐怖政治の時代が終わり、フランスは宮廷貴族が復活し、自由と享楽的な生活を謳歌していた。文学を愛し、詩人として成功を夢見る田舎の純朴な青年リュシアンは、憧れのパリに、彼を熱烈に愛する貴族の人妻、ルイーズと駆け落ち同然に上京する。だが、世間知らずで無作法な彼は、社交界で笑い者にされる。生活のためになんとか手にした新聞記者の仕事において、恥も外聞もなく金のために魂を売る同僚たちに感化され、当初の目的を忘れ欲と虚飾と快楽にまみれた世界に身を投じていく。挙句の果ては、当時二分されていた王制派と自由派の対立に巻き込まれ、身を滅ぼすことになる。

 

予告編

公式サイト

4月14日(金) ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿ピカデリー、YEBISU GARDEN CINEMA、アップリンク京都ほか全国順次公開

監督・脚本:グザヴィエ・ジャノリ
脚色・台詞:グザヴィエ・ジャノリ、ジャック・フィエスキ
撮影:クリストフ・ボーカルヌ
編集:シリル・ナカシュ
美術:リトン・デュピール=クレモン 衣装:ピエール=ジャン・ラロック
録音:フランソワ・ミュジー、ルノー・ミュジー、ディディエ・ロザイック
出演:バンジャマン・ヴォワザン、セシル・ド・フランス、ヴァンサン・ラコスト、グザヴィエ・ドラン、サロメ・ドゥワルス、ジャンヌ・バリバール、ジェラール・ドパルデュー、アンドレ・マルコン、ルイ=ド・ドゥ・ランクザン、ジャン=フランソワ・ステヴナン

2022年/フランス/フランス語/149分/カラー/5.1chデジタル/スコープサイズ/原題:Illusions perdues/R15+

字幕:手束紀子 
配給:ハーク 配給協力:FLICKK 
後援:アンスティチュ・フランセ日本

© 2021 CURIOSA FILMS - GAUMONT - FRANCE 3 CINÉMA - GABRIEL INC. – UMEDIA