『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版』世界最難関のヒマラヤ・マカルー西壁に単独で挑んだ伝説クライマーのドキュメンタリー
1996年、世界最難関の巨壁と言われるヒマラヤ・マカルー西壁に、たった一人で挑んだ若者がいた。本作は、このクライマー・山野井泰史の足跡を、貴重な未公開ソロ登攀映像と共に振り返った入魂のドキュメンタリーである。
監督は、自らもヒマラヤ登山経験を持つジャーナリストで、テレビニュース番組のデスク、ディレクター、プロデューサーとしても活躍を続ける武石浩明。25年もの長期に渡る取材を通して、〈極限の人〉の実像に肉迫する本作を完成させた。ナレーションを務めるのは、登山愛好家であり、今回初めて”語り手”としてドキュメンタリーに登場する岡田准一。
印象的なのは、「なぜ単独登頂にこだわるのですか?」と訊かれ、「独りで登っていると落ちない、死なないと思う」と言い切る姿。自身に対する嘘偽りない信頼が窺える。また一方で、「死ぬかもしれない、と思うことが大事。生還できるという完璧な確信があったら最初から登らない」とも言う。「生と死がせめぎ合う時の命の手触り、その感触に取り憑かれている」からこそ、人一倍慎重にもなる。同じくクライマーで同士のようなパートナー・妙子の存在もあって、彼はこの絶妙なバランスをキープし、クライマーとして比類なき才能を発揮し続けることができたのだ。
2021年、彼は登山界最高の栄誉といわれる「ピオレドール生涯功労賞」をアジア人として初めて受賞。世界中のクライマーたちの憧れであるラインホルト・メスナーやヴォイテク・クルティカなどと肩を並べて、クライミングの歴史にその名を刻んだ。
こうして伝説のクライマーとなった〈極限の人〉は、登山家やクライマーからすると今や「神」のような存在である。しかし、よくよく迫ってみると、彼は「奇跡を起こす人」というよりはむしろ「人生を極めた人」だった。だからこそ彼の人生が、(岩壁のみならず)立ちはだかる壁に挑むあらゆるの人にとって、ズシンと深く心に響いてくるのだ。
ストーリー
世界の巨壁に〈単独・無酸素・未踏ルート〉で挑み続けた彼の足跡を、パートナーである妻・妙子さんへの取材、関係者の証言などと共に振り返った渾身のドキュメンタリー。
はじまりは1996年、ヒマラヤ最後の課題といわれる「マカルー西壁」に単独で挑むという《究極の挑戦》への密着取材だった。
その後、山野井をめぐっては、2002年に沢木耕太郎の著作「凍」でも描かれたギャチュンカン登頂後の壮絶なサバイバルがあり、凍傷で手足の指10本を失うことになる。
2008年には奥多摩山中で熊に襲われ重傷を負うアクシデントにも遭った。
それでもなお“垂直の世界”に魅せられ、挑戦し続ける登山家の魂にカメラは迫る。
彼はなぜ登るのか? 死と隣り合わせの標高8000m超(デスゾーン)で彼が見たものとは? そして、彼は何故、生きて還り続けることができたのか?
武石浩明 監督インタビュー
――山野井泰史さんをそもそもなぜカメラで追いかけようと思われたのでしょうか?
僕も大学生のときに山岳部に所属し、いまもプライベートで登山をする山好きなので、同世代のクライマー(登山家)で自分が尊敬できる、しかも自分の手が届かない人を取材したかったんです。初めて会ったのは僕がTBSに入社した1991年です。同じ年に国内で初めてスポーツクライミングのワールドカップ大会が国立代々木競技場の屋外で開かれて、そこに人工壁を支える足場を組むアルバイトで来ていた山野井さんに声をかけたのが最初でした。彼はそのとき昇り調子で、88年にバフィン島のトール西壁を落として注目の存在でしたが、そのときは「自分も山に登るんです」という話だけをしたと思います。
その後、山野井さんは94年にヒマラヤのチョー・オユー南西壁からの登頂を成功させて、世界のトップ級のクライマーとなりました。取材を申し込んだのは、その翌年だったと思います。当時住んでいた奥多摩まで会いに行って、こちらの思いを伝えた上で、正式に取材のお願いをして了承を得たという流れだったと思います。
――山野井さんは、なぜ武石監督の依頼を受けられたのでしょう?
登山の価値というのは普通の人にはわかりにくいじゃないですか。例えばいまエベレストにノーマルルートから登ったとしても、登山史としての価値は全くない。ある程度登山をやっている人でも、理解していない人がほとんどです。山野井さんの中にも、本当に価値がある登山を一般の人に知ってもらいたいなという気持ちが少し芽生えていた時期だったと思います。
それと、山野井さんが目標としたマカルーと地続きのチョモロンゾという7816メートルの山に、私は93年に登っていたんです。それも、私を信頼してくれた材料だったかもしれません。
――取材の申し込みをされたときは、山野井さんがマカルー西壁に挑戦することはすでにご存知だったんですか?
山野井さんがチョー・オユーに続いてレディースフィンガー南西壁を登ったあとで、「次はどこを狙うんですか?」って聞いたんです。そしたら、「マカルー西壁だ」っていうので俄然興味が湧きました。世界で一番難しい“ヒマラヤ最後の課題”ですからね。これがヒマラヤで二番目に難しい課題だったら、取材していなかったかもしれない。世界一難しいところに山野井さんが単独で行くというのが魅力的だし、テーマ的にも突出したものだからこそ取材したいと思ったんです。世の中のほとんどの人が彼のことをまだ知らなかったし、誰も注目していないからこそ、紹介したかった。山野井さんのことを本格的に取材したのは私が最初だったと思います。
――ソロクライミングを生き甲斐にしていた山野井さんは、マカルー西壁登攀のときに監督やカメラマンが同行するのを嫌がったりはしなかったんですか?
同行したのが私と、山野井さんが旧知のクライマーでもあるカメラマンの青田浩さんだったことが大きかったと思います。登山はすごく特殊な世界ですから、人の名前やルートをよく知っていたり、共通言語が分かったりしないと価値観を共有できない。山野井さんも、私たちだったから自分をさらけ出してもいいかなと思ってくれたような気がします。
――カメラを実際に回し始めたのはいつですか?
1996年の3月です。南アルプスに荒川ネルトンフォールという氷瀑があって。山野井さんがその氷の滝をノーロープのフリーソロで登るのを取材したのが最初です。
――マカルー西壁に登るときは、山野井さんの方から条件や禁止事項などの提示はありました?
「一切サポートをしないで欲しい」「お金も一切出さないで欲しい」と言われました。それが彼の生き方なんです。
――撮影の際の条件や約束事は?
マカルー西壁への挑戦まで1週間を切って、緊張感がどんどん高まっていきました。「出発の3日前に1度だけインタビューを受けるけど、それ以降はひと言も声をかけないで欲しい」と言われました。私たちも、プレッシャーにならないように極力気をつけました。
――登り始めてからは?
テレビ局のカメラマンや私は出発以降、妻の妙子さんの取材や望遠レンズで撮影を続けました。ベースキャンプから壁の取り付きまでは青田さんが撮影して、壁を登り始めてからは山野井さん一人の世界です。ソロクライマーの横には誰もいちゃいけない。ひとりの世界にどんどん入っていかなければいけないので、そこはきちんと線引きをしました。
――望遠であそこまではっきり見えるんですね。
マカルー西壁は、ベースキャンプから頂上まですべて見えるんですよ。夜に登るのを暗視カメラで撮るから、クライマーの姿は肉眼では見えなくて、光の点でしかとらえられない。しかも、高さ2700メートルの壁はあまりにも大き過ぎて、スケール感が逆につかめない(笑)。見えないからこそ、想像をかきたてられる部分もあると思います。
――マカルー西壁は誰でも挑戦することはできるんですか?
挑戦することはできますが、一つは山野井さんも言っているように、「登る資格があるかどうか」だと思います。と言うのも、マカルー西壁は7800メートルぐらいから一番困難な岩登りが始まります。そこまではロープを一部使いながらフリーソロで行きますが、頂上直下に核心部がある。相当な実力と自信がないと行けませんし、まさに生きるか死ぬかの登攀になる。恐らく二晩は8000メートル以上でのビバーク(しっかりしたテントなどを使わない露営)を強いられると思います。もう一つは、挑戦する勇気があるかどうか。あの恐ろしいほど迫力のある壁を目にしたら、挑戦することさえ躊躇する人がほとんどだと思います。数年に一度、その時代のトップ級のクライマーが挑戦するという感じでしょうか。
――登り始めるときの山野井さんはどんな感じでした?
日本にいるときは「マカルー西壁に登れるのは、世界を見渡しても俺しかいない」と言うぐらい自信に満ち溢れていたけれど、(ルートや地形を調査する)偵察に行って帰ってきたときから、緊張感が高まっていって、見ているこちらも息がつまるような感じでした。
――山野井さんも最終的には途中で断念して、下りてきます。あの決断は傍でご覧になっていてどう思われましたか?
すごく葛藤があったと思います。高校時代から思い描いていた夢でしたし。また、撮影スタッフの顔が浮かんだっていうことも日記には書いてありましたから、気をつけていたとはいえ、やはり私たちの存在も影響がなかったとは言えないと思います。でも山野井さんは取材スタッフがいたから簡単にあきらめられない状況にしたかったとも言っていましたし、登山後に私たちに対して何か不満の言葉は一言もありませんでした。
――撮影を再開する2021年までの25年の間も、山野井さんとの交流は続いていたんですか?
たまに会ったり、家に遊びに行ったりはしましたけど、会っているだけで、撮影はしませんでした。機が熟すまでに、「もう1回、作品にしたいんです」って言えるようになるまでに25年が必要だったんです。僕もずっとチャンスは伺っていたんです。もう一度取材をしても、マカルー西壁挑戦以上のものは撮れないと思っていましたし。2007年に山野井さんが奥さんの妙子さんら3人でグリーンランドのオルカという壁を登るNHKのドキュメンタリーを観たときも、作品は面白かったのですが、彼本来のソロというスタイルではありませんから山野井泰史の本質を描いたとはいえないのではないかと思いました。
でも、あるときパッと閃いたんです。そうだ、あれから25年だと。その年数にはあまり意味はないかもしれないけれど、いま山野井さんの人生を俯瞰してみると、マカルー西壁の失敗もただの失敗ではないように見える。山野井さんも当時を冷静に振り返られるんじゃないかと思ったんです。
――新しいプランとテーマが浮かんだわけですね。
山野井さんは、あの後もずっとマカルー西壁を諦めていなかったと思います。“あの壁に太刀打ちできる実力がついたら登る”という考えはずっと持ち続けていたに違いない。僕は山野井さんについて雑誌のインタビューや対談をすべてウォッチしていましたが、ちょくちょくマカルー西壁の話題が出てくる。ギャチュン・カンで指を落とし、挑戦するのが物理的に難しくなったあとでも頭のどこかにはあの壁があったと思います。
しかも、山野井さんの挑戦以降、世界の名だたるクライマーたちがマカルー西壁に挑戦しましたが、全員弾き返されている。四半世紀経った25年目の節目にクローズアップしたら面白いんじゃないと思いついたんです。
――山野井さんのマカルー西壁の挑戦を振り返ることに意味があると?
そうです。沢木耕太郎さんも丸山直樹さんも山野井さんのことを書いているけれど、マカルー西壁のくだりはほとんど空白状態なんです。山野井さんが登れなかったショックから記憶を封印してしまった部分があります。でも私たちは全て見ていました。私はあの失敗にこそ価値があると思っているんです。あの失敗があったから山野井さんの人生が際立つ。マカルー西壁は絶対に外せないと思ったんです。何度も挫折しながら逆境を跳ね返して登り続ける山野井さんを見て、生きる勇気がもらえるんです。
沢木さんはギャチュン・カンに惚れ込んでいて『棟』という名作をのこしましたし、山野井さんも「いい登山だった」と言っていますけど、私は本当の気持ちは違うのではないかと思っています。山野井さんは中学時代から単独の登山を始めて心に体にも「ソロ」が深く刻み込まれた人です。妙子さんや仲間と一緒に登っていても楽しいとは思いますけど、頭のどこかにひとりで登りたいという気持ちがあるはずです。
――撮影再開の話を山野井さんにしたのはいつですか?
昨年の3月か4月だったと思いますけど、ちょっと考えていましたね。彼の中ではやっぱり、あの失敗が相当なトラウマになっていたんです。だけど、僕も山野井さんも、あの失敗をちょっと置き去りにしたまま人生を過ごしてきたようなところもあって、僕の中でもあれはやり残した仕事のひとつです。それに何としてもケリをつけたい気持ちもある。自分も納得できる形にできるんじゃないかなんという想いもありました。
――25年後のシーンを追加した最初のバージョンは「TBSドキュメンタリー映画祭2022」で上映したものですか?
去年の7月にTBSの深夜の番組『ドキュメンタリー「解放区」』で「登られざる巨壁」と題して、45分間のバージョンを放送しました。それに現代の登山や生活のシーンを大幅に加えた映画祭バージョンとして100分間の作品を作りました。そこからさらに、追加の取材や96年の貴重な映像を発して相当な箇所を手直しして、109分間の「完全版」にしました。
――映画祭バージョンや今回の完全版では、妙子さんとの日常も山野井さんの人生に彩りを与えています。
あのふたりは必然的に結びついたような気がします。山野井さんのように定職にも就かず、登山だけで一生暮らしていきたいという、普通の人の感覚では踏み込めないじゃないですか。でも、妙子さんとは気持ちが通じた。山野井さんと出会って、2人は惹かれていって今の生活がある。それはまさに運命の出会いだと思います。
――改めて、山野井泰史さんの人間としての魅力はどこにあると思いますか?
自分がいまできるギリギリの限界を探し続けているところですかね。普通の人は自分の限界を知ったときにそこで諦めてしまうけれど、山野井さんは手足の指を失っても、熊に顔をかまれても、どんな逆境に置かれても、いまある自分の能力の限界を高めて、最高のレベルに目標を定めて挑戦している。そこが魅力的です。
――完全版を作り終えたいまの気持ちを教えてください。
不思議なことに、去年の『ドキュメンタリー「解放区」』の放送後に、山野井さんが登山界最高の栄誉とされるピオレドール2021生涯功労賞を受賞しました。ソロで挑戦し続けたことが評価を高めた要因ですが、授賞理由にマカルー西壁への挑戦も入っていました。その後さらに、漫画の「アルパインクライマー-単独登攀者・山野井泰史の軌跡」(小学館)も始まりました。山野井さんの半生をいま振り返ってみようと考えた人が、僕のほかにも日本や世界にいたってことですよね。とっても不思議なことですが、未だに誰もマカルー西壁を登れていないことも合わせて、山野井さんの挑戦が、とても意味のあるものとしてクローズアップされてきたような気がします。図らずも私が、その口火を切った形となりました。
個人的には、自分が死んだ後も遺り続ける作品が欲しいという気持ちもありました。山野井さんの人生を描くのはとても大変なことです。でも、25年前に一緒に行ったマカルー西壁のことは自分にしか描けないし、そこをテーマにした作品を遺すことが実現できて、本当に感無量です。
武石浩明
Hiroaki Takeishi
1967年4月19日生まれ。千葉県出身。91年、TBS入社。報道局社会部で警視庁記者クラブ、司法記者クラブキャップ、デスク、社会部長を歴任。夕方のニュース番組では「ニュースの森」特集担当ディレクター、「イブニングファイブ」デスク、「Nスタ」チーフプロデューサー、朝の情報番組「モーニング Eye」ディレクター、「みのもんたの朝スバッ!」チーフプロデューサー、特別番組「報道の日2021」総合プロデューサーなどを担当。第1回TBSドキュメンタリー映画祭で短編作品「GReeeeN 初告白~東日本大震災から5年 HIDEが語ったこと~」を監督。TBSテレビ報道局次長、解説・専門記者室長を経て、現在は出向先の富山のTBS系テレビ局チューリップテレビの報道制作局専任局長。登山歴としては、中国のチョモロンゾ7816mを未踏ルートから初登頂などヒマラヤ登山を複数回経験。母校の立教大学山岳部監督も務めている。趣味は登山・トレイルランなど。
『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版』予告編
公式サイト
2022年11月25日(金) アップリンク京都、ほか全国ロードショー
語り:岡田准一 監督:武石浩明
撮影:沓澤安明 小嶌基史 土肥治朗
編集:金野雅也 MA:深澤慎也 音楽:津崎栄作
企画・エグゼクティブプロデューサー:大久保竜 チーフプロデューサー:松原由昌 プロデューサー:津村有紀
TBS DOCS事務局:富岡裕一 協力プロデューサー:石山成人 塩沢葉子
製作:TBSテレビ 配給:KADOKAWA 宣伝:KICCORIT
2022年/日本/109分/5.1ch/16:9 ©TBSテレビ
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