『ソングス・フォー・ドレラ 4Kレストア版』1990年日本初公開時に来日したルー・リードとジョン・ケイルのインタビューを掲載!
1987年2月22日に59歳で亡くなったウォーホルに捧げられたルー・リードとジョン・ケイルの本作のライブは、1989年12月にニューヨークのブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)で催されたライブを観客を入れない状態で特別に撮影されたものである。
日本では、その撮影された映画は、1990年12月にアップリンク配給によりシネセゾン渋谷でレイトショー公開された。
ドラキュラとシンデレラを合成したDRELLAはウォーホルのニックネームで、当時の公開時のタイトルは『ソングス・フォー・ドゥレラ』だった。
1990年の夏にルー・リードが『NEW YORK』のツアーで来日し、その追加公演で『ソングス・フォー・ドゥレラ』を再現するために来日したジョン・ケイル。二人にインタビューを行い、当時の映画のパンフレットに掲載した原稿を以下にお届けする。
インタビュアーは大場正明氏。
――新作 「NEW YORK」は、 現代のアメリカに対するジャーナリスティックな視点が際立っていると思うのですが。
ルー・リード(以下LR):同時に詩的であることを忘れないでくれ。
――そうですね。 そこで、 現代のアメリカの状況をどう思いますか。
LR:ぞっとするよ。 レーガンは最悪だったし、ブッシュもほんとにひどい。 むかむかする。 うんざりだよ。 レーガンは、むかつくうえに、間抜けだ。 ブッシュは、バカではないが、やはりむかつくよ。 アメリカは、レーガンのせいで、ぞっとするような恐ろしい問題を抱えているんだ。おかげで、ブッシュ政権に変わったいまでも悪い方向に向かっている。ロナルド・レーガンのような大統領に国をまかせるのには頭をかかえる。 信じられない。おかげで、いまはもっと悪くなっているんだ。
――具体的な問題はどこにあるのでしょう。
LR:いまのアメリカは、非常に保守的な人間とまともな人間に二分されている。 俺にとって問題なのは、異常なほど保守的で、信仰に凝り固まっている連中だ。 彼らは、右翼的で、この20年間に進められた社会改革を一気に逆行させようとしている。 ほんとにまずいことだと思う。 レーガンやブッシュは、女性の権利を無視している。 最悪だ。 どうしようもない。
――あなたは、「NEWYORK」の<ストローマン>のなかで、 "新しい大統領やスワガートの第6、第7、第8、第9の罪を誰が必要としているのだろう” と歌っていますが、 レーガンが大統領になるのに大きな役割を果たしたテレビ伝道師やキリスト教右翼勢力の動きをどう思いますか。
LR:ジミー・スワガートのようなテレビ伝道師が、人々から金を吸い上げているんだ。 泥棒だよ。しかも、宗教活動には税金がかからない。 連中のやってることは泥棒だよ。スワガートのような奴が数えきれないほどいる。 とても保守的で、宗教の影に隠れて人の財布から金を盗んでいるんだ。
――アメリカ人は宗教的に動かされやすい気がするのですが。
LR:もちろん、アメリカには言論の自由というものがあり、自分が賛同できない人間にも言論の自由があるわけだが、民主主義がくたびれているんだ。
――あなたは、「NEW YORK」 のなかの<ホールド・オン>で、ハワード・ビーチ事件やエリナー・バンバース、マイケル・スチュワート殺人事件を取り上げ、ひとつのドラマを作り上げています。 スパイク・リーは、 同じ事件をベースに映画「ドゥー・ザ・ライト・シング」を作ったわけですが、 映画はご覧になりましたか。
LR:ほとんど同じ時期のことだったんだ。 これは実に面白いよ。 こんなことを考える人間が他にいるというのは驚きだよ。 新しい映画監督のなかでは、きっと彼が一番刺激的だろう。だが、あの映画の最後、 サルがムーキーに金を渡すところは信じられないね。俺だったら、サルは連中を殺してると思うよ。
――あなたの音楽とラップは、ある意味でとても近い関係にあると思うのですが。
LR:ああ、ラップはとてもいいと思う。 俺の音楽には、様々なスタイルがあるんだ。なぜかといえば、俺がアメリカ人であり、 常に多種多様なものを耳にしているからだ。 俺の音楽は、混合なんだ。 ラップのいいところはいま何が起こっているのかをしっかり語っているところだ。 俺の音楽は、ラップにくらべるともう少し文学的かもしれない。 それはきっと俺が大学で英文学の学位をとっているからだろう。
――あなたのドキュメントとドラマを合成したような音楽世界はとても映画的だと思うのですが、音楽をもとに映画を作ろうとは考えませんか。
LR:“ミュージック・ノワール”だよ。 いまちょうど、ニューヨークでレイヤポバードという作家と「NEW YORK」を映画化する作業を進めているところなんだ。 彼は、オフ・ブロードウェイで「クーバーとテディベア」 という芝居を上演している。 プロデューサーはマーティン・スコセッシだ。ニューヨークでスクリプトを書いてるところだよ。
――「NEWYORK」 「ソングス・フォー・ドゥレラ」もそうなのですが、一曲一曲にイメージが凝縮され、アルバム一枚でひとつのドラマを作り上げる能力というのは、どのように培われるのでしょうか。
LR:たいへんだよ。書くときには、まず、頭のなかに浮かんでくることがあって、その歌のアイデアをまとめていく。ある場所から別の場所へと視点を変えて、構成していく。 それを頭のなかにためながら、 一連の曲を書いて、曲と曲、主題を組み合わせるんだ。 構成するのに必要なのは、“パワー” だ。 俺のアルバムでいつも重要なのは、リスナーに何かを喚起する感情とパワーなんだ。俺の作品は、注意深くきかなければ意味がない。そうしなければ、人がいつも聞いている他のアルバムと同じようなものになってしまう。精神を集中して聞かなければ、何の意味もない。ただのBGMだよ。
――映画の場合には、最初にスクリプトがあるわけですが、 あなたの場合は、詞が先とか曲が先ということがありますか。
LR:そのときによってまちまちだね。 だが曲は歌詞を生かすものだ。 しかし、歌詞はそのものが語りかける。だからこそ、わたしの作品には、リスナーの意志があるかないかが問題になる。リスナーに意志がなければ作品に意味はない。 何も起こらないんだ。
――「ソングス・フォー・ドゥレラ」 は、 デュオというフォーマットで演奏されているわけですが、困難はありませんでしたか。
LR:だからこそ、大きな効果が得られたんだ。レス・イズ・モアだよ。 最小のものから最大の効果を引き出す実例だ。 ギターの効果はとても大きいし、ピアノもそうだ。 他には何もないんだから。 大きな効果が得られて、パワーと感情にあふれている。 だから、 言葉も実にはっきりと聞き取ることができる。 造作もない演奏に聞こえるが、 スタジオでは決して楽なことじゃなかった。 ライヴもとてもシンプルに見える。しかし、決してシンプルではなく、そう見えるだけなんだ。
――「ソングス・フォー・ドゥレラ」 で綴られるウォーホルの生涯には、 実話が豊富に盛り込まれていますが、あなたは、アルバムのスリーブで、これが“まったく架空のストーリーである”と断っています。 ということは、あなたのなかにもっと実像に近いウォーホル像があるのでしょうか。
LR:作品をフィクションとことわったのは俺が詩的許容に依存しているからだ。 俺は、作品のなかで、 アンディになって語っている。 そこには、正確なディテールがあるが事実に反することもあるかもしれない。 だから、フィクションと呼んだんだ。後で、あれは事実と違うみたいな言われ方をされたくなかったんだ。
ルー・リードの 「NEWYORK」 については、そのタイトル自体が、大きな区切りの作品であることを簡潔に物語っている。 そして、内容の方もタイトルの重みに負けない完成されたスタイルが際立っている。 インタビューにもあるように、現代アメリカの様相が、ニューヨークという都市の断片に見事に凝縮され映画を観ているように(あるいは、まさしくスパイクリーの「ドゥ・ザ・ライト・シング」のように) イメージが広がっていく。彼の前作 「ミストライアル」にも、このようなジャーナリスティックな視点が散見されたが、その完成度には大きな開きがある。 また映画化の話を聞くと、これまで、小説や映画といったメディアとの拮抗を目論んできたルーにとって、 「NEWYORK」 が、 いっそう大きな節目のアルバムになることは間違いない。 そして、この完成されたスタイルは、ウオーホルの生涯を実話をおりまぜながらフィクションとして生き生きと描く 「ソングス・フォー・ドゥレラ」 でも際立った効果をあげているのだ。
それでは、今度は、ジョン・ケイルのインタビューである。
――あなたのアルバム 「WORDS FOR THE DYING」 の大半を占める<フォークランド組曲>であなたはディラン・トーマスの詩を歌っていますが、 この作品は、彼の詩にインスパイアされたものと考えていいのでしょうか。
ジョン・ケイル (以下JC):わたしはウェールズ人だから。 ウェールズで成長すると、デイラン・トーマスの世界はとても身近なものになるんだ。学校の授業でも彼の詩が頻繁に出てくる。 シェイクスピアやT・S・エリオットと同じようにディラン・トーマスに接することになる。それが、文化の最も重要な部分を占めているんだ。
――ということは、以前からディラン・トーマスの詩を音楽化したいと考えていたのですか。
JC:そう、最初に思いついたのは、オペラを書くことだった。 というのも、何とかして自分の過去、自分がどこからやって来たのかを語ることができないか、何かそういうものを作りたいと思い、それで、ディラン・トーマスはこんな生涯を送ったのではないかということをオペラにしようと考えたんだ。そこで、彼の伝記を読んだ。 しかし、もちろん、伝記を鵜呑みにしたわけではない。 伝記そのものに興味があったのではなく、 「アンブレラ」、これはディラン・トーマスの詩のタイトルなんだが、その「アンブレラ」の時代のことを考えていたんだ。 まず何よりも重要なことは、 彼の詩と、 詩が彼の人生に果たした役割を理解しなければならないということだ。 そうすることによって、 詩が社会生活と結びつくんだ。 そこで、 何編かの詩に曲をつけてみることにした。 長いあいだ遠ざかっていた音楽をだ。 わたしは、 ずっとノイズと音楽のことばかり考えてきたからだ。 わたしは友人のアパートやスタジオにこもって、それを全部やることに決めた。 ふたりして大変な作業だった。そして、この作業を進めているちょうどそのときに、フォークランド紛争が始まったんだ。 わたしは、 詩の一編で、 内容がフォークランド紛争にも見合うように言葉のひとつを変えている。両国の死者に捧げるということだ。 しかし、作業がすべて終わったとき、それは、政治的な姿勢というようなものではなく音楽的なアイデアになっていた。だから、わたしが選んだ四編の詩は、 特にある時期と関連しているというよりは、もっと深い意味で結びついているんだ。
――<フォークランド組曲>の演奏にソビエトのオーケストラを使ったのは。
JC:この作品をレコーディングするのに最適な場所をいろいろ考えていたら、ブライアン・イーノが、作品をとても気に入ってくれて、 それで、 彼の夫人がソビエトの官僚につてがあって、ソビエトのオーケストラでできるんじゃないかと言ってくれたんだ。音楽的な理由と経済的な理由なんだが。 "GOSTELERADIO" には世界でも最高のオーケストラがある。しかも、ミュージシャンたちは何でもできる。 というのも、わたしの曲には、決してロックンロールのようなアイデアではないんだが、ある種、 クラシックとも違うアイデアがあったんだ。 彼らは、ミュージカルのオーケストラのようにして、とてもよくやってくれたよ。
――このアルバムには、同名のドキュメンタリーがありますね。
JC:ああ、監督のロブ・ニルソンの発案でわれわれにとってはけっこうな冒険だったんだ。 というのも、彼のクルー、 カメラマンや照明などのスタッフのビザが取れなかったんだ。 そこで、われわれは、 スタッフを連れていくのを諦めて、モスクワのテレビ局からスタッフを募った。 カメラマンは、 これまでそんな責任あるポジションをまかされたことがないし、それから、 録音のスタッフたちもこれまで、 音楽の映像を手がけたことがないようだった。 しかし、われわれは連中に頼んで、 カメラマンなどは、 これまでやったこともないようなショットを大胆に試みたりして、 楽しい経験だったよ。
――ドキュメンタリーの印象も含めて、 このアルバムはあなたのキャリアの大きな区切りのように思えるのですが。
JC:確かに。この何年かわたしはロックン・ロールのバンドによる活動から遠ざかり、ソロのステージをやったり、弦楽四重奏曲やバレエのスコアを書いたりしてきた。 そして自分の出発点になった音楽を振り返り、自分のルーツであるクラシックに戻り、自分が発展させてきたスタイルの源を探ろうとしていたんだ。 「WORDS FOR THE DYING」 の <フォークランド組曲>は、その結果ということになる。
――ドキュメンタリーには、あなたがウェールズにいる母親に会いにいく場面もありますね。
JC:ああ、ハッピーだったよ。 母親は、2か月くらい前に亡くなったんだ。 だから、フィルムに記録できてとてもハッピーだ。
――現在の音楽的な関心、あるいは、次の作品の予定があったら教えてください。
JC:日本に来る二週間前にイーノとレコーディングを終えたばかりだ。ふたりで曲を書いて、歌も演奏もしている。 ダニエル・ラノアのバンドのメンバーとかを使って、とてもハッピーなロックン・ロール・アルバムだよ。 きっかけになったのは、イーノと「WORDS FOR THE DYING」 の製作を進めているあいだに、ふたりで曲を2曲書いたことだ。一曲は 「WORDS~」の最後に入っている<ザ・ソウル・オブ・カルメン・ミランダ>で、詞も曲も3時間くらいで、アッというまに出来てしまった。 そこで、ふたりで同じことをアルバムでやってみようということになった。 しかし、実際には、それほど簡単なことではなかった。 曲の形を整えていくまでにはかなりの時間がかかったが、われわれの歌はとてもうまくいったよ。
――<ザ・ソウル・オブ・カルメン・ミランダ>は、女優のカルメン・ミランダのことを歌っているのですが、 どのようなことを歌っているのですか。
JC:われわれは、映画のなかのカルメン・ミランダの悲劇的なイメージという観点から曲を書いた。 実はこれは誤りなんだが。 というのも、彼女は、ブラジルでは国民的な大スターで、カルメン・ミランダ記念館があり、巨大な記念像まで建てられている。 この曲は間違った観点、誤った考え方にたって書かれているわけだ。 当時は、歌とかダンスを買われて外国人がたくさんハリウッドにやってきたんだと思う。たとえば、リタ・ヘイワースとか。しかし、歌もダンスもこちらが期待するような西洋的な視点で見てしまうんだ。だから、そういうプロットがあるんだ。この曲は大袈裟な悲劇で終わったりはしない。
――「ソングス・フォー・ドゥレラ」は、デュオというフォーマットですが、困難なことはありませんでしたか。
JC:どの曲も簡単ではないし、それを通して演奏するのは、 特に、作品の中盤あたりにある3曲が、ほんとうに大変だった。 他の曲とは違う手の込んだ展開があるから。しかし結果としては、緊張のなかでルーとわたしが作り上げることのできる最高の作品になった。演奏には、ふたりの人間の素晴らしい関係が必要だ。音楽は、とても個人的で、人間的なもので……経験をわかちあうことによって、演奏が可能になるんだ。 とにかく、この作品の曲は、演奏するのがとても難しかった。 もし、われわれが協調することがなかったら、こうはならなかっただろう。
――とても一般的な質問なのですが、 あなたにとってウォーホルはどのような存在だったのでしょうか。
JC:彼にはきまった仲間がいて、いつもいっしょにいた。 わたしは、 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが (ファクトリーを)去ってからも、そこにとどまっていた。 ファクトリーでそれ以前よりも長い時間を彼と過ごすようになったし、 前よりも個人的な関係になった。 そこで、 アヴァンギャルドなバンドをやって、たくさんの人を破壊に巻き込んだり。彼には、わたしとはまったく違うあるスタイルがあった。 プロデュースのやり方とかを尊敬していた。しかし、彼が死ぬ前には関係が遠くなっていた。 彼は、わたしのアルバムのジャケットにアイデアを出したり、 デザインに協力してくれたりした。 しかし、 ヴェルヴエット・アンダーグラウンドの活動を始め、 彼に出会ったとき、 彼はもうはるかに有名な存在だったんだ。
インタビューでも触れられているように、 アルバム 「WORDS FOR THE DYING」には、そのレコーディング風景を収めた同名のドキュメント・フィルムが製作されている。そこには、レコーディング風景ばかりではなく、ヴェルヴェッツ時代からソロにかけての写真や映像が冒頭に挿入されていたり、ケイル夫人のインタビューや子供を含めた家族の映像やジョンが故郷ウェールズに住む母親に会いにいく場面などが収められている。 しかも、ラストで、ジョンは、ウェールズの崩れかけた古城と緑の田園のなかに消えていく。先述したジョンがヴェルヴェッツを脱退するくだりのところで、ぼくは、ルーの 「それは、あいつがウェールズ人だってことなんだ」 という言葉を引用したが、まさしくジョンは、アルバムとドキュメンタリーを通してウェールズ人である自分に深く分け入っていくのである。
そして、インタビューでも触れられているジョンとブライアン・イーノの新作は、「WRONG WAY UP」 というタイトルですでにリリースされている。 ジョンは、ハッピーなロックンロール・アルバムと表現していたが、確かに、その内容は、ノイジーなサウンドやトリッキーなアレンジ、 絶叫などによって自我の暗闇を切り裂くようなこれまでのアヴァンギャルドなソロ作品とは一線を画している。
「ソングス・フォー・ドゥレラ」 は、 ルー・リードとジョン・ケイルのふたりが、それぞれのキャリアの節目にあたる作品を作り上げる作業の狭間に産み落とされた。 ライヴ・フィルムに刻みつけられたあの火花を散らすような恐ろしいテンションは、そんなところにも起因しているように思えてならない。
あくまでも、ニューヨークにこだわるルー・リードと故郷ウェールズの風景のなかに消えていくジョン・ケイルの姿は、対照的であり、象徴的でもある。
エドワード・ラックマン監督コメント
この映画の前に、私は『Red Hot + Blue : A Tribute to Cole Porter』というビデオに参加していました。エイズ支援企画で、デレク・ジャーマンが監督をして私が撮影、アニー・レノックスが出演するというものでした。ところがデレクが病気になってしまい、私が監督もすることになったのです。デレクが快く貸してくれたホームビデオの映像をアニーの顔に投射し、彼女は『Every Time We Say Goodbye』を歌うのです。それを見たチャンネル4が、『ソングス・フォー・ドレラ』の撮影を私に依頼してきたのです。もともとはセント・アン教会で行う予定でしたがBAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)に変更になりました。私は、ルーとジョンに会ったのですが、ルーが最初に言ったのは、彼と聴衆の間にカメラは入れるな、これは観客のためのパフォーマンスなのだから、というものでした。それならリハーサルを撮らせてくれないかと提案したところ、それには同意してくれました。そのことでまったく別の撮影方法に道が開けることになりました。観客の存在を心配せず、カメラだけに集中し密着できます。ルーとジョンの関係に焦点を置いてドリーの動きを設定しました。一人のクルーと共にリハーサルを2日間撮影し、カメラをステージから遠ざけて一夜のパフォーマンスを撮影しました。作品はイギリスではかなり好評だったのですが、アメリカでリリースされることはありませんでした。ワーナーからDVDを出してほしいとずっと願ってましたが実現しないままでした。ネガも行方不明になっていました。ニューヨークのDuArtラボが閉鎖されるとき、私の名前が書かれているすべてのネガを私のロフトに送ってもらうように依頼しました。何があるか分かりませんでしたが、失われるのが嫌だったのです。パンデミックの間に私はそれらの中身を調べました。なんと、何年も探していたネガがそこにあったのです! 状態を確認し色補正をしました。音はなかったのですが、ルーとジョンがアルバム用に承認したオリジナルのミックストラックをワーナーが見つけました。その後ニューヨークで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの愛好家で音の修復をしている人が映像と音を同期させてくれたのです。こうして最高の映像と音が手に入ることになりました。
監督プロフィール
米ニュージャージー州出身の撮影監督。ハーヴァード大学、トゥール大学(仏)で学んだ後、オハイオ大学で絵画の学士号を取得。トッド・ヘインズ監督の2作『エデンより彼方へ』(2002)と『キャロル』(2015)でアカデミー賞撮影賞ノミネート、前者ではヴェネチア国際映画祭撮影賞受賞。これまで100本以上の商業映画、実験映画、ドキュメンタリー作品を手がけている。組んだ監督は、ヘインズのほか、スティーヴン・ソダバーグ、ロバート・アルトマン、ポール・シュレイダー、トッド・ソロンズ、ソフィア・コッポラ、ヴェルナー・ヘルツォーク、フォルカー・シュレンドルフ、ウルリヒ・ザイドル、ジャン=リュック・ゴダールなど多士済々。自身も監督を務めるほか、ヴィジュアル・アーティストとして、インスタレーション、ビデオ、写真などがMOMAをはじめ多くの美術館で展示されている。
ストーリー
ウォーホルに対する問いかけまたはウォーホル自身が語る設定の、リードとケイルが共同で書き下ろした15曲。二人は歌を交換する形で神話的なウォーホルの生涯にオマージュを捧げる。長い間失われたと考えられていたオリジナルネガだが、ラックマン監督がトッド・ヘインズ監督『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』(2021)の撮影を進める過程で発見。オリジナル16㎜ネガから4Kで復元したのが本作。
*「ドレラ」とはドラキュラ+シンデレラの意味で、ウォーホルのニックネーム
予告編
公式サイト
10⽉28⽇(金) ヒューマントラストシネマ渋谷、アップリンク吉祥寺、アップリンク京都ほか全国順次公開
監督・撮影:エドワード・ラックマン
歌詞全訳:林かんな
1990年-2021年(4Kレストア版)/アメリカ/55分/原題:SONGS FOR DRELLA
配給:オンリー・ハーツ
🄫1990 Initial Film and Television / Lou Reed and John Cale