月刊公評 2012年1月号より転載
映像文化とは何か『挨拶のような映画』
佐藤忠男(映画評論家)
今年、2011年東京国際映画祭の「日本映画・ある視点」というセクションで上映された作品のひとつに「春、一番最初に降る雨」というのがあった。
監督脚本の佐野伸寿は、プロの監督ではなく、自衛官であって、カザフスタン大使館に勤務していたことがあり、そこで知り合った中央アジア諸国の映画人たちに協力して何本かの映画を製作している。そのひとつの「ラスト・ホリディ」(1996)は東京国際映画祭に出品して、ヤングシネマ部門東京ゴールド賞および東京都知事賞を受賞しているし、「三人兄弟」(2000)は同じくアジア映画賞を受賞している。私は自分がディレクターをしていたアジアフォーカス福岡映画祭で佐野伸寿製作作品を上映したし、ゲストとして佐野さんに来ていただいたこともある。
というわけでアジア映画界のあまり知られざる部分を担っている映画人として注目していたので、こんどは監督にも進出してカザフスタンで映画を作ったというので、早速この作品の上映会場にかけつけた。そこでまず、上映前に監督の話があったのだが、その話を聞いて私はびっくりした。
佐野監督の話によれば、この映画は2004年の福岡映画祭で佐野さんのプロデュース作品が上映されたとき、私がお喋りしたことがヒントとなって作られたのだそうである。私は全く忘れていたのだが、佐野さんによれば私は、「良い映画というのは良いあいさつのようなものだ」と言ったらしい。見知らぬ人に会ったとき、人は、にこやかな笑顔を浮かべて自分について説明する。うちにはこんな子どもがいて……うんぬんと。それで自分を受け容れてもらい、つきあいがはじまる。映画も同じようなものだ------と。
そう言われればなるほどと思う。私がアジアやアフリカの映画の良さに気づいて、世界をめぐって映画ではまだ知られざる地域だった国々の作品を見て歩きはじめた頃、いちばん嬉しかったのは、世界のどこにも、正にそんな、その国の人々に親しみを感じるような作品があったことだった。それらの地域の映画を日本に紹介するにあたって、芸術的な作品からにするか、いや現地でヒットしている娯楽作品を無視してはいけないのではないか、という議論がけっこう日本でもあったし、現地の映画人からも問われたものである。しかし、私は、芸術性、娯楽性、さらに社会性といった物差しの他に、その国の人々に親しみを感じる映画、という価値判断の基準があると感じていたし、それが大切だと思っていた、と思う。だから、佐野さんの印象に残っているような発言をしたに違いない。
じつはそれまで佐野さんがプロデュースしていた作品は、ちょっと暗い傾向のものが多かったと思う。近年、石油で注目されるような国もでてきて事情も違っているようであるが、どちらかといえば貧しくて人口も少ない国々である。娯楽大作などは作るのが難しいし、作っても観客がいないだろう。かつて、中央アジアの国々がこぞってソビエト連邦加わっている民族共和国や自治州だった頃、ソビエトの文化政策として各民族共和国にひとつずつ撮影所を作っていたものである。カザフスタンなどは第二次大戦中、セルゲイ・エイゼンシュタインがスペクタル大作の歴史映画「イワン雷帝」を撮るのに、ドイツ軍の迫るモスクワやレ二ングラードの撮影所を避けてここで仕事をしたということがあって、歴史は古いほうだ。しかし、概して言えば、民族共和国の映画はレベルが低く、その地方だけで上映されてソビエト全土で上映される機会は容易に得られなかった。ただ、ときどき、モスクワの中央の撮影所から若手の優秀な監督を招いて野心的な作品をつくって意気をあげることがあった。そうした作品のためにやってきた監督は、その地方の社会的に遅れている面に注目して、それで苦しんでいるような人々や、そこから脱却しようとして戦っているような人々に注目して社会派問題作を作る傾向があり、それですぐれた作品ができると地方語のオリジナル版の上にロシア語のセリフやナレーションをかぶせてソビエト全土で上映されることがあった。
もしかしたら佐野さんが中央アジアの映画をプロデュースする時、それぞれの国だけでなく、日本やヨーロッパの国々などで上映されること考えの中に入れていたと、やはりその国の貧困や遅れている面に着目した社会派的な作品でなければならないという考え方になりやすかったかもしれない。じじつ今度の作品も、初めの考えでは新藤兼人監督の「裸の島」のようなもの、ということだったそうである。ところが私の言った“あいさつのような映画”という言葉を思い出して、まるで違った方向に動き出すことになったらしい。にこやかで、深刻なことなどなくて、見たらそこに描かれた人たちに親しさを感じるような映画だ。
こんな内容だ。
カザフスタンの田舎である。正面にはどっしりと巨大な山脈がある。天山山脈のどこか、雄大な眺めだ。手前には川があり、草原があり、一軒だけぽつんと家がある。草原に定住して羊を飼っている農家である。オンボロではあるがトラックが一台あるところを見ると、小舟を一隻だけ持って隣の島から芋畑のために水を運んでいた「裸の島」の一家よりはマシな暮らしと言えるだろう。「裸の島」と言えば、むかしフランソワ・トリュフォーが日本に来たとき、その頃話題になっていた、「裸の島」をどう思うかと日本の映画批評家たちに聞かれて、「輸出ねらいのわざとらしさが目立って嫌いな映画だ」とニベもなく言ったことが強く印象に残っている。あの映画は独立プロ近代映画を主宰していた新藤兼人が原水爆反対映画の自主作品「第五福竜丸」の大赤字で解散に追い込まれ、どうせ解散するなら最後に一本、もし配給会社がどこも引き受けてくれなくても、どこか会場を借りて上映するだけで気がすむような、つまり大手の映画会社などに頭を下げてまわらなくてもいいような、自分たちの自前の資金だけで借金なしの作品を一本残して解散にしようという発想から生まれた当時としては常識外の超低予算作品である。じじつ完成後の最初の公開はそんなふうに、宣伝もなしの、どこかの会場を借りての上映になった。たまたまこれがその年のモスクワ映画祭でグランプリを獲得して大評判になり、文字どおり世界中に売れたものだ。モスクワ映画祭に日本代表として選ばれて出品できたのも、出品作の選考をまかされていた日本映画製作者連盟が、どうせモスクワではブルジョア的な映画は賞はとれないと思っていたことが影響している。連盟は構成メンバーである大手の映画会社の作品ばかり外国の映画祭に推せんして独立プロ無視でけしからん、と非難されていたので、大手の作品はカンヌやヴェニスに推せんし、モスクワには独立プロの顔を立てて「裸の島」でいいだろう、貧乏な映画は世界の貧しい国のリーダーをもって任じているソビエトへ、というような流れで出品されたものなのである。これが輸出ねらいの下心を持って作られたものだなどとは、作った本人たち自身はもちろん誰も考えていなかったと思う。島の芋畑に水を運ぶというだけの単調きわまる内容も、超低予算というところから必然的に生まれたもので、輸出ねらい、映画祭ねらい、外国のエリート映画専門家ねらいの前衛性ではない。そもそも新藤兼人は、ときどき実験的な撮り方は試みるが基本的には重厚なリアリズムの系統に属する映画作家である。
というわけでフランソワ・トリュフォーの言った「輸出ねらい」というのは全く彼の思い込みにすぎないのであるが、当時モスクワ映画祭によく行っていた私の実感からすると、貧困を描いた映画ならモスクワ映画祭へ、という気分が世界の出品者たちの間にかなり一般的にあったことは事実であり、トリュフォーの目にはそう見えたのであろう。そして貧乏人の味方であるはずのソビエトにおもねて、ことさら貧困を誇張したり、貧困の特異なありようを強調した映画ではないかと言いたかったのであろう。それはトリュフォーの好みの問題である。
余談だが、当時------というのは一九六〇年前後の頃------モスクワ映画祭はソビエトの映画ファンにとって自由主義国の映画を見ることのできる稀な機会だったので、どんな作品でもだいたい会場は満員になるのだが、上映がはじまって数分して、あ、これはわが国にも貧乏人がいる、という例の調子の映画だと分かると、もう遠慮もなにもなくゾロゾロ会場を出ていったものである。モスクワの市民の多くが見たかったのはブルジョア的な映画だったのだ。しかし「裸の島」は例外で、正に貧乏人の映画であるにもかかわらず、観客はこの映像文化とはなにか作品の特異な描き方にじっとひき込まれ、終わって会場を出ていくときには多くの人々が作中で繰り返されていた林光の主題曲のメロディを口ずさんでいたと言われている。 明らかに大きな感動をまき起したのである。ただし、フランソワ・トリュフォーが気に入らなかったのは彼の勝手だ。
話が脱線してしまった。 「春、一番最初に降る雨」のことにもどらねばならない。素晴らしい大自然の中にある僻地の貧しそうな生活。 そこの一軒の農家の暮らしを描こうとして作者はまず「裸の島」でいくか、と考えた。こんな辺びなところでどうして生活できるのだろう? という発想だろう。外から見れば当然であろう。 佐野伸寿監督自身、これまで数本、ソビエト体制崩壊後のこの地域の人々の生き方の苦しさ難しさを見据えた作品をプロデュースしてきている。しかし、貧しいと言っても、いまそこに暮らしている普通の農民は、オンボロとはいえトラックの一台ぐらいは持っているのだ。いったいどんな暮らしなのか。その暮らしの日々の喜怒哀楽を美化もせず、おとしめもせず、「やあ、こんにちは」と、あいさつして近づくような目線で描いてみようと微妙に撮り方を変えてみたということであろう。 もっともそう言えば「裸の島」だって、瀬戸内海の小島になぜか一軒だけ家があって農作業をしているというのが奇異なだけで、その家族はたまたま大きな魚が釣れたりすると町まで小船でそれを売りに行って食堂で楽しく食事をしたりする。だから日常のなにげない喜怒哀楽を無視していたわけではないのである。ただ描写の重点はあくまで、水桶を担いで坂を登り下りするという重労働のいつ果てるとも知れぬ執拗な繰り返しにあった。しかし「春一番最初に降る雨」では、労働ではなくて日常のほうを専ら注目している。なんでもないようだが、そこがじつに新鮮だ。なんたって、シルクロードの天山山脈あたりの農民の日常の喜怒哀楽を映画で見た経験なんて、ちょっと誰にもないだろう!
さて、その家には、お父さんと、お母さんと、中学生ぐらいの年令の長男と、小学校ぐらいの男の子と女の子。 そしてもうひとり、この家族とは血縁関係がないのに、なぜか長い間いっしょに暮してきたらしいお婆さんがいる。
ある夜、そのおばあさんが夕食のあとの団らんのときに、しみじみと話す。自分は昔、この家の亡くなったおじいさんとおばあさんに拾われて、それからずっと、家族として一緒に暮してきた。しあわせだった。みんなも私によくしてくれて有難う。 私は明日、いなくなるけれども、悲しまないでほしい。ただひとつお願いがある。私の遺体は遠い湖の見えるところに運んで埋葬してほしい。私はいなくなるのではない。これからもみんなと一緒にいる。この家の息子の誰それ君には生れ変ってお嫁さんになってあげるから安心していなさい。
――と、そんなことを彼女は淡々と言うのである。みんなは神妙に聞いている。べつに驚きもしない。これを演じたのは女優ではなく、教師かなにかをしているインテリ女性だそうであるが、民話を聞いているような素朴な味があって自然ないい演技である。とくに映画の中では説明はないが、上映後の観客とのトークで監督が言ったことによれば、カザフ人の家族のなかで彼女だけはアルタイ人で、シャーマンだという設定だそうである。シャーマンだから自分が明日死ぬであろうと予言でき、みんなもそれを不思議とは思わず当たり前のようにして聞いている。べつにアルタイ人だけがそんな信仰の世界に生きているわけではなく、カザフ人にも、死んで生れ変わってあなたのお嫁さんになってあげる、というような預言は、なんとなく、そうかもしれない、ぐらいの感じで通じるのであろう。馬乳酒などをふるまいながらの、一家の夕食の団らんのお喋りだけで、そんな突飛な世界が現実に目の前にあるものとして納得してしまう。そしてじっさい、翌朝にはおばあさんは雪の中でちょうど用意されているような場所で亡くなっている。お父さんとお母さんは早速その遺体を指定された土地に葬るために準備して出発する。とはいつても死体の運搬などということは違法行為なのであろう。途中の検問などをどうごまかすか、などの準備がいちいち納得できるリアリズムになっているので、これは別世界のおとぎ話ではなく、世界のどこでも僻地なら普通にあることとして、リアルに感情移入しながら見ることができる。
お父さんは長男に、妹と弟のめんどうをみながら家畜もちゃんと見るようにと言って、お母さんと一緒にオンボロトラックで出発する。旅は何昼夜もかかるらしい。この道中が映画の本筋になるわけだが、けっこう笑いのある珍道中である。車が故障して修理に苦労するのを手始めに、途中で寄ったガソリンスタンドで、ガソリンはないがジェット機の燃料ならある、と言われて面喰うなんて、秀逸なギャグだ。また道々、子たちを進学させるかどうかを夫婦で話し合うあたりもたいへんリアルだと思う。夫は、ちゃんと暮していける現在の生活で何が不足か、と言い、妻は、でも将来を考えると・・・・・・と言う。これこそ正に、アジアの広大な地域で親たちが真剣に考え、話し合っていることだろう。
この親たちの旅とカットバックして、家では子たちがちゃんと留守番をしている様子がドキュメンタリー・タッチで描かれる。羊が産気づいたと幼い妹が知らせに来ると、お兄ちゃんが手際よく羊のお産を処置する。
この親と子のカットバックに、もうひとつカットバックが加わる。どういう旅か分からないが、ロシア人の父親と十代ぐらいの若い娘が、サイドカー付きのオートバイで旅しているのである。オンボロトラックのノロノロドライブと違って、壮大な風景をつっきる壮快な旅である。テントで野宿したりする。二人の会話で父親が妻と離婚して、娘と一緒に新しい職場に向かう途中らしいことが分かる。父と娘の愛情がにじみ出るいい場面である。この親子が旅の途中、主人公たちの一家の家に立ち寄り、ちょっと休ませてもらう。こういう僻地ではホテルも宿屋もなく、旅人たちはテントや車の中などで野宿しながら移動するが、途中、民家があれば、ちょっと一休みさせてもらうことになるようだ。この家では、両親は留守でも、子どもたちがちゃんと心得ていて、ミルクを茶碗にたっぷり持ってきて飲ませてくれたうえに、ちょっと一眠りしたいと言えば、布団まで敷いてくれる。なるほど僻地の旅とはこういうものかと、ほんのさりげない描写にほんとうに感心した。ロシア人のお父さんがこうしてうたた寝している間、長男はこのロシア人の若い娘が馬に乗りたいと言うと、彼女を馬に乗せて、小川のほとりをひとしきりめぐって仲よくなる。
三蔵法師の西方旅行など、大昔からけっこうこのあたりを旅人が通っているわけだが、いったいどうして旅ができたのか、かねがね不思議だったが、じつは大昔からこうだったのではないか。第二次大戦中、シベリアの捕虜収容所を脱走し中央アジアを徒歩で南下し、ヒマラヤを越えてインドに出た人の手記を読んだことがある。そこでもウイグルあたりからチベットの荒野を、野宿だけでなく、しばしば民家に泊めてもらって食事もめぐんで貰いながら歩きつづけたと書かれていた。だから民家に泊めてもらえるということを知らなかったわけではないが、映画の場面として見るとこれが劇映画であっても実感は圧倒的である。明治初期、日本にやってきたイギリス人のイザベラ・バードという女性の旅行家は、日本人の通訳をひとり連れて東京から東北一帯を旅してなんの危険も感じなかったという。日本はそんなに平和で治安のいい国だったのかと、いまその旅行記を読んでわれわれは鼻たかだかなのであるが、じつはシルクロードの西域だってそんなものだったかもしれない。この映画を見ながらそう想像するとアッと驚いてしまう。歴史書というのは動乱の時代や英雄豪傑が闘争に明け暮れる日々のことばかり知らせたがって、なんでもない普通の日々のことはあまり書かないので、あるいは歴史好きの読者がそういう歴史しか読みたがらないので、民家から民家へ、折口信夫の言うまれびと、旅人として歓待されながらの荒野の旅というものをわれわれは想像できなくなっていたのだ。
ロシア人のお父さんが目をさまして、子どもに少し金を渡し、娘を呼んでまた旅を続けようとする。お金の渡しかたがなにかチップでも置いていくような感じであるあたり、 一休みはいくらというきまりなどとくにないのだろう。こうしてロシア人親娘が家を出ていくとき、ロシア人の娘がこの家の長男の耳に口をよせて一言言う。「これで別れではないわ。七年後にまた会うわよ」というような言葉であり、その声が娘の声ではなく、どうやら亡くなったアルタイ人のおばあさんの声らしい。ということはつまり、おばあさんが言っていた、「生れ変わってお嫁さんになってあげる」というのは、おばあさんの魂がこのロシア人の娘に生れ変わってまた会いにくるということか、とピンとくる。
これでカットバックしながら併行して進んでいた二つのこの物語は結びつく。そんな不思議なことを言っているロシア人の娘が、じつはその言葉を自分では全く意識していないらしくて表情が変わらないところがいい。 輪廻転生の寓話だけれども、べつに深刻な話じゃない。もしそうだったらいいね。ぐらいのところです。というようなやさしいタッチで頬笑ましい表現になっている。
そしてその夜、オンボロトラックの両親は家に帰ってくる。おりから、雨が降り出して、家族はみんな仕合わせそう。というのは、この最初の雨というのは厳しい冬がこれで終わって春が来た、ということだからだそうである。現地の人たちほどその意味を直接的に感じとることはできないにしても、そういう幸福感がそこにあることは分かる。とはいえ、この長男は進学できるのかどうか、都会のロシア人の娘が僻地の羊飼いのカザフ人のところに嫁に来てくれるかどうか、といった未解決の事柄は残されているわけだが、それらはまあ、適度に気になる未解決問題というところだろう。
結論としてこれは、大作でも力作でも問題作というほどでもない好ましい小品だが、じつに愛すべき、快いぬくもりのある映画だと言うことができる。 佐野伸寿監督は、おしまいのトークで、カザフスタンという国は何十という種族が争いもなく平和に共存しているところで、そこがこの国の素晴らしいところだと思う、と強調していた。そういう国柄の感じはこの映画にもよく出ている。
考えてみると、シルクロードのあたりというのはNHKの「シルクロード」をはじめ、テレビのドキュメンタリーなどではけっこう見ているのだが、いつも、その風景に神秘を感じるばかりで、そこに住んでいるかもしれない人々のことは想像もできなかった。 二十世紀も終りになる頃から、中央アジア諸国の映画をぼちぼち見ることができるようになって、ときには愛すべき素朴さを好ましく感じることもあった。近く公開されるキルギス映画、アクタン・アリム・クバト監督主演の「明りを灯す人」なども正にそのひとつである。淡々とした日常的なエピソードをユーモラスに綴っていくあたりは「春、一番最初に降る雨」に共通するものでもある。そこ
に輪廻転生を持ち込んだのが「春、一番最初に降る雨」の面白いところだが、じつはこの輪廻転生は隣りのモンゴルの映画では私はよく見たことがあるテーマである。モンゴルがソビエト圏を離れたとき、モンゴルの民族的伝統を見直そうというテーマがモンゴル映画にはかなり鮮明に現れた。そのひとつがチベット仏教の見直しであり、そこに輪廻転生を単なる迷信とするのでなく、一種の民族的な楽天想像の現れを見るような扱い方だった。
「やあ、こんにちは」というあいさつのようなものとしての映画 外国人に対して私はこういう者です、どうぞよろしく、と呼びかけるような映画、そういえばあれもそうだったなと思う。
(さとう ただお)
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