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死の教室

【監督】

アンジェイ・ワイダ

【出演】

マリア・グレツカ、ボフダン・グリボヴィッチ、ミーラ・リフリツカ、ズビグニエフ・ベトナルチック、ロマン・シヴラックほか

ポーランドの前衛演劇人タデウシュ・カントルが演出した『死の教室』の、 アンジェイ・ワイダによる舞台記録。 タデウシュ・カントルならではの 「死の演劇」という演劇方法論を元に1975年ポーランド初上演され、 20世紀の ポーランド演劇史におけるもっとも著名な作品とされている。1983年に鈴木忠志から招聘を受け、利賀フェスティバルや東京パルコ劇場にて公演され、斬新な条理演劇の好評を得る。 舞台の内容は、廃墟のような教室に、自らの子供の頃の分身である、 人間を模倣して型取られたマネキンを持って、徘徊している老人たちが死者を演じ、恰も暴力を受けた物質として、 生と死の狭間を行きつ戻りつしている。 こうして生身の俳優を追い払ったカントルの舞台が、新たに我々に多くの問題を提起している。

カントール—―生身の俳優を追放せよ(寺山修司)

ただのマッチが、そのマッチに変わること。そこから生まれる関係を、ドラマツルギーと名付けることが、カントールの演劇的ディスクールであることは、あきらかだ。そこでは、「暴力を受けた物質」「有形化された誤解」として、マッチの仮面が剝されることになる。したがって、マッチは最早、ただの物質に還元されるところから、カントールの演劇をはじめるのだが、厄介なのはこの「物質」が、すでに記憶を持っている、ということである。ただのマッチと、そのマッチ、そして一年後の同じマッチを区別するのは、個人の時間なのか、あるいは集団の時間なのか、あるいはそれらの融合としての歴史なのか?そのへんから、彼の近作『死の教室』を思い出してみることにしよう。

『死の教室』には、十二人の死んだ老人が登場する。彼らは、それぞれ自分の分身(すなわち、少年時代の自分を呪物化したもの)として、一体ずつの人形を持っている。ある老人は、それを腰から紐でぶらさげ、ある老人は大切そうに抱いている。こうして、過去だけが、物質化されて、老人の腰からぶらさがっているのではない。俳優によって演じられた老人たちもまた、同じように、暴行を受けた物質、有形化された誤解として、カントールの腰からぶらさがって(あるいはカントールの腰にしがみついて)いるのである。彼らは、同一の回路を経てきた呪物として、マッチの軸同様にカントールによって「並べ変えられ得る」存在であった。『死の教室』で、彼らはまるで何か質問をしようとしたままのポーズで静止していた。そして、カントールのサインを得てはじめて、机に飛びあがったり、ズボンを下ろして、性器を露出しようとしたりするのであった。中断、そして「並べ変え」が意味するもの。

それは、演出家カントールの意味のままに動かされるチェスの駒としての俳優の役割を示しているのではない。『死の教室』のダイナミズムは、物質への偽装からはじまる非飽和の世界の表出であり、無限の繁殖力をそなえた「形成」のダイナミズムによって観客をもつつみこんでしまう、おそるべきアナーキズムの演劇だと言うことができるだろう。

制作国 ポーランド
制作年 1976年
上映時間 1h12
提供者 Telewizja Polska S.A.
公式サイト
配信期間 2023-11-02まで配信